2 小児神経症

 

     病理編

 

 

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                   「参考資料1」の〈自己主体性の理想生育史〉の

 

                  表に関連して。

 

 

    補記:上の表にも関連しますが、これまでの連続講座の所々で

        述べてきた一次性徴と二次性徴に於ける「性徴」の概念

        を生物生理学に戻し、心理学としてはこれにまったく無

        関係に、3ヶ月から2才、あるいはもう少し遅く4才位

        まである、いわゆる小児性欲といわれるものを、「身体

        所有期」で表わします。ここでは一次性徴と小児性欲は

        まったく別の概念であるという解釈を判っきりさせまし

        た。

        性徴は本能に関し、フロイドの言う小児性欲は主体性を

                 擁立するために為される「知感覚誘導」に関しています。

        準主体性を持つ動物、例えば犬などにも「身体所有期」

        の顕れが観察できます。

        生物的身体の二次性徴は「生長の完成期」です。これに

        触発される第二反抗期は「成長の完成期」で、ここでも

        主体性の確律に関して性欲が旺盛になりますが、本能の

        生長としての性欲も入り混じっています。生物的本能で

        は性は家族(愛)の本能と切り離して考えることはでき

        ません。しかし、主体性の成長に関連する性の欲求は、

        自慰にせよ、相手を求めるにせよ、快楽を所有する自由

        の発揚に関しています。

        自由損傷症候群の症状として性欲を強調したフロイドは、

        この主体性の自由に関する性を言っていたのです。

 

        人間に於ては、性は行動精神病、性倒錯、自由拡張症候

        群、自由損傷症候群に顕れますが、これらの性は本能の

        種維持に関する家族の本能とは厳密に区別されます。つ

        まり愛の行動とは別種のものなのです。もちろん、そこ

        にも幾分かの愛は含まれていることはあり得ます。

 

 

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                                         身体の所有

                                      

 

  胎児段階から既にそうですが、赤子は生まれ落ちるとすぐに、その生存環境

に染まります。生後二〜三ヶ月で主観が獲得されます。

 主観は言語記号の体系から生み出される「自由の概念」です。この「自由の

概念」は、生後八ヶ月位までは、本能身体に侵入する作業に専念します。この、

未だ主体体制の習練期にある主体性を、「先主体性」と呼び、その意志は「先

自由意志」と呼ばれます。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-15.htm

            <自由の行動から見た生育史>

 

⇒{参考資料1}<自己主体性の理想生育史>

 

 

 喃語と伝い歩きが可能となる八ヶ月以後の幼児は、先主体の「母子共生期」

を脱し、主体性が本能を凌駕して身体に組み込まれる「主体体制の始歩」状態

にあります。

 

 

  これを言い換えれば、身体を自由力で所有することで、この身体完有状態に

ある主体の状態を「原主体性」と呼び、その自由力の様態を「原自由(意志)」

と呼びます。原自由は”所有、支配、権力、翻弄”の理念によって自己身体を

所有することを目的としているのです。

 この目的は身体を主体的自由の下に行動させることであり、未だ社会的な目

的を持たない彼の、その自由行動に関する”所有、支配、権力、翻弄”の理念

は、「原理念」と呼ばれます。原理念に基づく意志が「原自由意志」です。

 

 

 原自由の身体への組み込みは、知感覚による本能統覚の誘導でなされます。

乳幼児は物を舐めたり、しゃぶったりしますが、これは口腔知感覚で身体を所

有、支配する試みを行なっているのです。あるいはまた、自分の局部を盛んに

弄(いじ)るのも同じです。

 これを無闇に止めさせたりすると、原自由の成長を阻害することになります。

 

⇒{参考資料1}〈主体の本能所有=その主体意志組み込み経路〉

 

 

 原理念は「身体に対する自己主体性理念(所有、支配、権力、翻弄)」であ

り、この存在様態は社会的には未だ罪性を生ずるものではありませんが、自己

の本能存在に対しての、『原罪』を負った自己主体性なのです。

 『原罪』は社会の出先機関である扶養者によって、子供に運命的に植え付け

られます。

 

 

 

 原自由を獲得することは、主体的な存在としての人間になる為に不可欠なも

ので、この原自由の『原罪』ある故に、人はその死まで、十字架を背負う義務

を課せられているのです。

 

 

 

 「躾(しつけ)」は、この『原罪』性を《十字架》を負う力に向けさせる為

に、扶養者、及び社会成人が彼に行なうものです。

  但し、これは理想であり、この理想を違える扶養者や社会のことを、これか

ら学んでいくことになります。

 

 

 

 

 

 

                      自立意志

 

 

 原自由が十全になると、本能身体の生長必然性に導かれて、2才から4〜5

才にかけて次の主体的な成長ステップに入ります。この講座で学ぶ「自立に関

する躓(つまず)き」である小児神経症は、この生育段階で生じます。

 自立の確立は、主体の本能に対する二つの誘導経路の、原自由の「知感覚誘

導路」に平行する「認識誘導路」を敷設することです。第二反抗期が目的とす

る自律は、この認識誘導路を更に太くすることにあります。

 

 

  「自立」の目的は原自由を「身辺的な社会性」あるものに、「自己陶冶」す

ることです。このためには、扶養者から躾られていた存在様態を自ら消化して、

更にはまた昇華することが必要で、この顕れが、とくに扶養者に対して強く顕

れることになる「第一反抗期」です。

 

 

 「自立期」は「第二反抗期」に入るまでの長い期間ですが、4才児から小学

高学年児までの身辺社会は、次の発達段階である「自律」に向けて、拡張され

深く掘り下げられていきます。

 4才児では、例えば”服を自分で着ることができる”ことが、自立です。小

学1年では”登校の用意を全部自分でできる”ことが、自立です。

 

 

  これらの自主独立は、価値観とともに為されます。服装の趣味、筆箱や鞄の

趣味が主張されることになります。自分が気持ち良い物を選ぶことは、同時に

また人に見られることを勘案することでもあり、これが個人としての子供の身

辺社会的価値観の主張なのです。

 社会性は、「主体的存在観」を持つ個人としての独立性に他なりません。

 

 

 彼のそのような自主独立を、近所の手前とか、先生の手前とかを思ん計るお

父さんお母さんの面子から、子供に干渉して潰してしまうことが、「小児神経

症」の罹患を促進することになります。

 朝、ある家庭ではお母さんが朝食の用意をしながら、2階で登校の用意をし

ている子供に、”ぐずやな! ほんまに。早くしなさい。愚図!”と、言葉の

切れる隙(ひま)もなく言い続けていました。2階からは何の応答もありませ

ん。もう子供を見るまでもなく、どんな生育状態で、どんな心理を日々抱いて

生活しているのかはすぐに想像できます。

 

 

 

 

 

 

                  精神神経症と通常神経症

 

 

 小児神経症の罹患は成人神経症と同じく、扶養者圧力が主要な外的原因です。

反対に、扶養者圧力がない場合は、自由拡張症候群の罹患を促進することにな

ります。tenp-31 の〈自由損傷症候群〉に見るように、神経症は自由拡張症候

群の自由力度の座標上で、力がゼロとなった様態です。これを以って「自由損

傷症候群」と名称されることになります。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-4.htm

            〈精神疾患の発症力学〉

 

 

 

 「躾」のためには扶養者圧力は必要不可欠です。「躾」に必要な圧力は、乳

幼児の持つ『原罪』の力、即ちその自由の無制限力と拮抗している限り有効で

す。

 

 

 

 「躾」は読んで字のごとく「美しい身体」で、”感謝、愛、善、美”が彼の

立ち居振る舞いから発散している様子を表わしています。”エロス(愛)”、

”艶っぽさ”、”色っぽさ”が漂う女性や男性を見るのは、子供であっても老

人であっても心と眼の楽しみです。

 

   ∴艶っぽい(エロティック):官能的な性愛

           同義:艶(なま)めかしい、艶(あで)やか

 

    色っぽい(コケティッシュ):感情的な性愛

 

 

 

   閑話休題:上のことはそのまゝでは誤解を招くおそれがあるので、一言

         すれば、それらのうち、エロス以外は魔力的なものがあって、

         自己主体性の自由拡張症候群と、自由損傷症候群の偽自律の

         主体度にあるものは危険性を孕むでしょう。フラフラと虜に

         されてしまうと、人生の一大事業である”エロス”また”ア

         ガペー(博愛:意訳)”が済(な)し崩しになって、気が付

         けばもう終わっていたということになりかねないものです。

         人生40年の歳月を目前にすれば、否が応でもこのことを認

         識することになりますが、25、6で、この第一波の波に持

         ち上げられたときに気付けば、なおベターでしょう。

 

 

 「躾」は本来、精神主体性価値でなされなければならないものですが、これ

を単に、原自由の無制限力を抑えつけて、”音無しくさせる”ことを目的とし

たときに、子供の自由は損傷して「通常神経症」に罹患することになります。

 自由損傷症候群には通常神経症と、精神神経症があり、前者は上に述べた扶

養者の力による純粋な抑圧によって罹患します。

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-32.htm

                      〈自己主体性としての自由損傷症候群〉

                      〈自由損傷症候群の家族因〉

 

 

 後者の「精神神経症」は、tenp-31 の〈精神神経症と通常神経症〉を参照し

てください。通常神経症が自己主体性価値を持つ自由損傷症候群であるのに対

して、精神神経症は精神主体性価値を持つ自由損傷症候群です。

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-31.htm

                      〈通常神経症と精神神経症〉

 

 

 私達の社会は自己主体性社会であるので、精神主体性価値を持つ主体は表面

に出ること能わずに、水面下に潜行することを常とします。この主体を「無意

識的摂理主体」と呼びますが、無意識的摂理主体性である個人は、もう一方の

手に自己主体性を持っていて、資本主義社会に自己をフィットさせています。

 無意識的摂理主体性が、意識的な摂理主体性である精神主体性に成れない最

大の障碍は、他ならぬ自分の中に持つ自己主体性の自分自身に対する抑圧にあ

るのです。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-5.htm

            <主体性の様態と疾患>

 

 

 tenp-5 の下の説明にあるように、自己主体性が幅を利かす資本主義の社会

では、精神神経症を脱して精神主体性になることは、精神神経症であることに

増して、生存の苦痛を身に引き受けることとなるのです。

 

 

 精神神経症には「偽自立」の症状がない他は、通常神経症とその症状を同じ

くします。自由損傷症候群の症状は偽自立の他に、「葛藤症状」と「根本情態

性反応(自律神経症状)」がありますが、偽自立症状を異にするだけで、他は

同じです。

 但し、成人の「偽自律」症状と小児の「偽自立」症状は、生育段階が相違し

ているので当然その表出は相違します。例えば、癇癪を破裂させて物を投げる

のは同じですが、”アレを買え、コレを買えとダダをこねる”とき、ひと昔前

には、よく子供は道路であろうが何処であろうが寝そべって、喚き散らしなが

ら手足をバタバタさせていましたが、成人が癇癪を起こすときは、少なくとも

往来で人に迷惑を掛けることはないようです。

 

 

 

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        補記:通常は、男女の愛は”情愛”を感情性、”性愛”を官能性

        とします。愛の意志の働きは常に時間空間に展開します。

        情愛と性愛はその両発動の中にあって、「表現の優位性」

        を表わすだけです。

 

                  先号では、”エロス(愛)”を老若男女の区別無くなされ

        る個人的な愛の意味で使い、”性愛”を恋する男女間の愛

        の意味で使いました。

        エロスは集団の本能に関し、性愛(男女愛)は家族の本能

        に関しています。

 

        性愛を”男女愛”と言い直すなら、エロティック=性愛、

        コケティッシュ=情愛ということになります。

 

        ”アガペー(博愛)”は集団の本能に働く”全体愛”です。

        全体愛は個人への愛より優先し、個人愛は制限を受けます。

        「集団愛」と「家族愛」は拮抗します。また、この両者を

        併せた「種の本能」あるいは「種の価値」は、休息、及び

        食の、「個の本能」あるいは「個の価値」と拮抗します。

        これを言い換えれば、”他愛”と”自愛”の拮抗というこ

        とです。

 

「自愛」について、誤解のないように付け加

        える必要があります。

        人類の内部では「他愛」に対して「自愛」とする表現は妥

        当ですが、休息の本能も、食の本能も、ともに自然という

        環界があってこそ機能します。

        従って、自愛は決してエゴイズムではなく、環界を配慮し

        ながらの自愛です。もっと言うなら、自己の存在は環界か

        ら生じた、環界を自体(本質)とする対自体(機能)に他

        ならず、生きることは、そのまゝ環境世界の存続を配慮す

        ることに他ならないのです。

                  他愛の対象である種全体もまた、同じように自己存在にな

        くてはならないものであるなら、自愛することは他愛と環

        境愛を同時に遂行することであると言えます。

 

        存在は、自己を含む存在界全体を愛する”存在愛”を本能

        とするのです。

 

 

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                      葛藤症状

 

 

 自由損傷症候群では“自立しなければならない”という自立欲求がいつもあ

るとは限りません。通常神経症は自己主体性価値を既に所有しています。自由

損傷は価値の問題に発するのではなく、自由拡張主体に対する力の引け目です。

 自由拡張症候群主体は根本情態性に対峙すると、それぞれの力の大きさに応

じてうまく立ち回りますが、自由損傷症候群主体は盾の陰に身を潜めながら、

隠れるようにして「遁走」します。これが引け目の実態です。

 

 

 自由損傷主体は、しかし、何かしら得意分野に力を誇示し得るもので、その

とき、劣等者に対しては優越感を味わいます。この優越状態のとき、彼はもう

一方の手に持つ自由拡張主体として存在します。

 

 

 上の状態では当然に、自由損傷症候群の症状はありません。他に症状が見あ

たらないように見えるときは、圧力から遠く離れているか、圧力対象の圧力が

さほど強くないので症状が縮小されているだけで、自由損傷症候群ではない、

ということはありません。

 人は存在する限りは、生存の各瞬間毎に、主体的自由の存在時空を構築しな

がら生きねばならぬ運命にあるからです。

 

 

  自由損傷症候群でなければ、自由拡張症候群です。それらでもなければ無意

識的摂理主体性です。あるいは、それらのごった煮である複合症候群です。偶

には精神主体性であるかも知れません。

 

 

 自立欲求の昂まりがないときは、偽自立の状態でいることが居心地良いもの

です。世界観構築の思索の作業がまるで要らないのですから。しかしその状態

は存在の充足がない、存在を担うことを回避した、軽い浮遊の状態です。自分

で自分を支えれば、それは結局自重となってすべて自分に掛かってきますが、

自己の存在の大部を扶養者に担わせているので、自分で支える力はほんの少し

程度で済んでいるから浮遊感を味わうのです。

 

 

 この浮遊状態を、自己の存在上で自己と扶養者の二者の力が結合するという、

擬生命的調和と言い表わすことができるでしょう。成人ではこの関係が身辺を

離れてもっと広範囲に行なわれ、互いに持ちつ持たれつの擬生命的調和界を形

成し、世界に対する人間としての責務を忘却するのです。

 

 

 このような居心地の良い偽自立の状態が対象圧力によって破られるとき、存

在の時空に対応した各葛藤症状が生ずることになります。    

 tenp-33 の〈小児神経症の自立葛藤症状〉の表の、「時空」は自由力が存在

の四時空に発揮する力です。葛藤症状は、この四力のもっとも自立欲求を強く

打ち出すものから順にその症状を強く持つことになります。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-33.htm

     〈小児神経症の自立葛藤症状〉

         〈自由損傷主体に於ける偽自立、及び葛藤時の根本情態性の様態〉

        〈偽自立=原主体レベル〉

     〈自立葛藤=自立主体レベル〉

 

 

 

 小児の自立に於ける葛藤症状は、”対象世界の一般的な力”に対する自己の

自由力の損傷を意識している状態です。それは昆虫とか、雷とか、夜の闇とか

の身辺環境全般に対する力比べとしての「自立」の力学の行使の最中に生ずる

ものです。

 

 

 従って、〈意志型〉に見るその葛藤症状の〈圧力―損傷〉に於ける圧力対象

は、生の目的が人間社会に収束する前の、自然環境全体に概観される”所有、

支配、権力、翻弄”の、それぞれ代表する力なのです。

 成人神経症では葛藤対象は人間に絞られていますが、幼児ではこの四力の葛

藤対象は、人間を含む環界のすべてで、また成人では葛藤症状に表出される力

は直接の対象そのものではなく、象徴された「もの」ですが、幼児では上に述

べたように晒されている圧力をもたらす実際の力の代表です。

 

 

 

 

 

 〔上位自立葛藤〕

 

 

 上位自立葛藤症状の「恐怖症」は「単純恐怖」といわれ、成人の恐怖症のよ

うなバリエーションはありません。「動物恐怖」には昆虫も入ります。

 〈運動型〉、即ち〈官能表現型〉の「遺精」は、「遺糞」と「遺尿」の”お

漏らし”の心理機制と同じです。幼児ではしかし、未だ精出はありません。

  「遺唾」もまた唾液のお漏らしで、吐唾することです。

 

 

 成人に自慰があるように、幼児にも自慰があります。「自慰」は権力に結び

付く性器の知感覚を刺激して、知感覚誘導路を太くしようとする試みです。こ

れは、次号で述べる「主体性崩壊」を事前に防ぐ措置で、これによって、主体

性から身体が離脱することを防止しているのです。

 自慰は従って、当然、遺精とは異なった心理機制で、また次号で見る主体性

崩壊中の「夜精(夢精)」とも異なります。

 

 

      ∴自慰:この他にも、それぞれ目的を異にして、行動精神病や性倒錯症、

        自由拡張症候群、また上にも述べたように種々の崩壊主体にも

        あります。

 

   ∴知感覚誘導:人が権力的であるときは、性器に意識が集中されていま

            す。他の力もそれぞれを担う器官に意識が在位されてい

            ます。

 

   ∴お漏らし:”お漏らし一般”は自由拡張のアイデンティティを持つ成

           人でも、対象圧力に晒された一過性の主体度(−・−)

           様態での過度の恐慌状態時に起こし得ます。また自由損

           傷主体が一過性に起こす反応でもあります。これらはと

           もに、生育史的退行を起こして、自立葛藤状態に入った

           結果です。

 

 

 上位自立葛藤は情官の(+)、即ち自由意志の力を保有しているので対象圧

力に抵抗し得る力は充分に強く持っています。つまり、”怒り”を示すことが

できます。しかし、知感覚の力が弱体化しているので、この弱点に抑圧を受け

るとダメージを被(こうむ)ります。

 

 

 この状態は、冬に室内の暖かさの中で、戸外の活動の楽観的な予定を立てて

外に飛び出したものの、予想外の凍える寒さに簡単にギブアップするようなも

のです。寒さを感じるのは知感覚ですが、この知感覚の(―)判断が強力であ

れば情官をも(―)判断に引き下ろして、ギブアップ、即ち根本情態性に捕縛

させてしまうのです。

 

 

 偽自立では生育史を一段落とすことにより、つまり、原自由に撤退して根本

情態性を振り切っています。しかし、葛藤が再発するとメッキが剥がれて自由

力度の座標の交点0に萎んでしまうのです。交点0は、原自由(=無制限性の

自由拡張症候群)の座標上から転落することに同じです。

 

 

 tenp-33 の〈自立葛藤=自立主体レベル(自立度の座標)〉は、その転落し

た姿で、この全域が根本情態性に侵襲されています。その(+・+)域は葛藤

状態にあっては仮想域に過ぎないからです。

 

 

 この根本情態性に侵襲された座標では、もっとも力のある様態である(+・

+)域に、根本情態性の最大状態があり、これに続くのは(+・−)域の上位

葛藤です。

 つまり、ここでは、もっとも力を残余させている上位葛藤主体が、自立のた

めの内観をもっとも活発に行なって根本情態性を最大に露呈させてしまうので

す。

 

 

 根本情態性に捕縛されながら、根本情態性をもっとも強く意識するのが上位

葛藤主体で、下位葛藤主体は根本情態性に捕縛されていても内観する力が弱い

ので、根本情態性が迫ってくる程度が低いということです。このことは次項で

もっと判っきりするでしょう。

 

 

 既に自立した主体もまた、一過性に小児神経症に逆行しますが、実質的な

「自立主体」をこの(+・+)域に置くなら、根本情態性の侵襲は(−・−)

域から(+・−)域の怒りの領野に掛けてだけで済みます。

 自由損傷をアイデンティティとしている間は、「自立」という主体性は仮想

されるものに過ぎません。従って、〈自立度の座標〉の(+・+)域は空白で

示されるものです。

 

 

 葛藤状態は、原自由から転落して根本情態性に捕縛されています。従って、

常に主体性の崩壊の危機に居るのです。上、中、下の三つの葛藤症状は、この

根本情態性に捕縛されている中にあって、残余の力がどの程度あるかを示すだ

けです。

 

 

 対象圧力に敗北を意識してじりじりと後退していくとき、自己の抵抗力は圧

力対象に面と向かうことはできなくなって、あらぬ方向で空を斬るばかりの状

況で、“お漏らし”が起こるのです。

 ”空を斬る”抵抗は、ちょうど上役に怒鳴られた下役が、その鬱憤のはけ口

を人知れず余所に求めるのにも似ています。

 

 

 お漏らしは、次項で述べる「根本情態性反応」の、本能身体の”おそれとお

ののき”、即ち、”震えと痙攣”の反応を土台とする、主体の自由力が限りな

く無に近づいていく現象です。

 

 

 

 

 

 〔中位自立葛藤〕

 

 

 中位自立葛藤症状の権力の時空(権力型)の弄精では「陰茎、陰核が弄ばれ

る」ます。これは、自立に関する認識誘導路とともに、性器をもって為される

原自由力に関する知感覚誘導路の畏縮が、同時に意識されていることを示して

います。

 

 

 これは”攻めの姿勢にある”自慰とは異なります。また成人神経症で「爪を

噛んだり」、「髪の毛を弄ったり」、「貧乏ゆすり」したりするチックは上位

葛藤症状で、”闘おうとして力が空を切っている”様態を示すが、幼児がここ

で「弄ぶ」のは、”いじいじしている”様態で、中位葛藤症状です。

 「弄唾」は、「嚥気症」もこれに含みます。中位葛藤は情官の力の縮みによ

って上位葛藤より抵抗力は劣っているのです。

 

 

 「単純恐怖」や「緘行動」の感情型の症状は、官能型と同じく、やはり身体

上に定立されるのであり、決して抽象的観念のみの存在様態なのではありませ

ん。それは全身体を使った表現です。

 

 

 

                      

 

 〔下位自立葛藤〕

 

 

 下位葛藤では、甘えの乳児返りによって偽自立を維持しますが、対象圧力に

よって葛藤状態に転じたときは、扶養者に庇護を求めて、〈感情型〉ではその

後に「隠れ」、〈官能型〉では「しがみつき」ます。扶養者が居なければ、前

者は「無抵抗」状態となり、後者は「逃げる」ことでその無抵抗を示します。

 

 

 成人神経症ではこの下位葛藤症状の「無抵抗」は「したがう」行動となり、

幼児の場合でも「逃げ隠れ」できないときは、「したがう」ことになります。

 上位葛藤の葛藤は抵抗しようとして“抵抗できない”ことで生じ、中位葛藤

は抵抗しようとして“抵抗したくない”ことにより、下位葛藤では抵抗しなけ

ればならないが、“抵抗しない(したくない)”ということが、それぞれの自

立葛藤時の心理機制です。

 

 

 下位葛藤での「甘え」の乳児返りは、〈意志型〉では”扶養者の後を追い”、

〈運動型〉では”おっぱいを欲しがり、食事をしてもらいたがり、おしめをし

てもらいたがり、抱いてもらいたがり”ます。

 

 

 

 

 

 

                             

                                      

                    根本情態性反応

 

 

 もはや対象の圧力に抵抗できないまでに自由が不全となると、根本情態性に

捕縛されることになります。根本情態性捕縛の状態は、偽自立状態ではもちろ

ん起こり得ません。

 下位葛藤では前項で述べたように、残余の力が乏しいので、内省力に不足し

ます。内省から内観に至らなければ根本情態性に相眼見えることがありません。

  葛藤状態は根本情態性捕縛状態で起きるので、根本情態性反応は起こすでし

ょうが、劇的なものではありません。

 

 

 上、中位葛藤の心理機制に踏み込んだときのみ根本情態性反応が生じ得ると

言ってよいでしょう。自立しようとする意志が強ければ強い程、彼の前に立ち

塞がる壁は厚くなります。それは自由の概念が形質を大きくしたとき、重力場

から受ける影響も大きくなるようなものです。

 根本情態性反応は、巨大な質量に出逢ってその重力場に捉えられてしまった

ようなものです。 

 

 

 ”不安、絶望、混沌、恐怖”の情官である根本情態性を、”おそれとおのの

き”とも表現しますが、“おそれ”は時間性分であり、“おののき”は空間性

分です。

 おそれとおののきの感情表出は身体の“震え”です。また官能表出は“痙攣”

することで示されます。

 

 

 前項の葛藤症状の〈官能型〉に見た「四つの身体器官」に関する症状は、知

感覚誘導に関している器官です。この四器官は主体の恣意的選択によるもので

す。

 これに対して根本情態性反応は、本能の先天的な感情、官能、及び知覚、感

覚反応であり、集団の本能は骨格筋に、家族の本能は主に循環器系に、休息の

本能は主として呼吸器系に、食の本能は消化器系に、それぞれ表出器官を持っ

ています。

 

 

  tenp-33 の〈根本情態性反応―意志了解性〉の表の〈知覚性〉は、「中位自

立葛藤」の反応であり、対象の圧力が掛かって“不良”の判断を示している様

態です。皮膚に痛みを受けると不良判断を起こします。熱風を受けても同じで

す。同じように、不快な対象や暗闇などの恐怖対象に出会うと、あなたの皮膚

に鳥肌が立つ筈です。

 対象の圧力は知感覚判断にまず掛かり、それから情官判断に提供されます。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-33.htm

        〈根本情態性反応―意志了解性〉

        〈根本情態性反応―運動発動性〉

     〈本能存在の身体器官による存在の四時空の表出〉

 

 

 〈価値性(感情性)〉は価値の自由度の低落による「上位自律葛藤」の根本

情態性反応です。価値性も知覚性も共に価値判断された結果、主体度が(−・

−)域に転じて根本情態性反応を起こします。知覚性は対象の”不良”の結果

であり、価値性は自己の価値尺度が“不自由”に転じた結果です。

 

 

  上位葛藤では知覚判断ははじめから(―)に落ち込んでいますが、これは

(−・−)域にある下位葛藤が慢性的、また継続的に根本情態性に浸っていて、

劇的な根本情態性反応の症状を出さないのと同じで、根本情態性反応には罹り

にくいと解釈できます。

                                  

 

 中位自立葛藤の方では、やはり継続的な価値尺度の不自由性が根本情態性反

応に罹りにくくしています。

  〈根本情態性反応―運動発動性〉でも同じです。ここでは〈価値性(官能性)〉

と〈感覚性〉の根本情態性反応が展開されます。

  根本情態性反応は本能が表出するものなので、動物一般にも同じように起こ

り得るものです。

 

 

  意志了解性(感情性と知覚性)と運動発動性(官能性と感覚性)を分かちま

したが、身体症状は意志統覚(情官と知感覚)の全判断を同時に含んだもので、

価値性と知感覚性を分かつ以外は、あまり意味のないものです。

 

 

 「呼吸促迫」は、その結果として「炭酸ガス欠乏性全身痙攣」に至ることが

あります。軽い呼吸促迫、「発汗」、「震え声」、種々の「筋肉の痙攣」や

「動悸」などは誰しもが多少は経験している筈のものです。

 また、これら根本情態性反応の赤面、蒼面、吃音、震声などの症状を、成人

強迫神経症がその権力型で強迫症状の種としますが、下に述べる本能の存在の

四時空との連関はありません。

 

 

 存在の全身体は本能の四つの存在時空を同時に支えていますが、各器官は先

に述べたように配分された意義を持ち、各時空の目指す意志目的の実現の為に

機能すると見なされます。

 tenp-33 の〈本能存在の身体器官による存在の四時空の表出〉の表を参照し

てください。

 

 

 

 

 

 

 

 

                        主体性崩壊   

 

 

 小児の自由損傷は、身辺社会に於ける自己確立に失敗した姿です。自立がで

きないのは、自由力が損傷している結果、自前の理念を擁立できないことです。

 

 

 自立は、身辺社会に於ける自由力の無制限性に達することです。無制限性に

達しなければ独立した主体性は保障されません。

 身辺社会の諸力に伍して主体的独立を勝ち取る闘いが第一反抗期ですが、こ

の闘いに敗れた姿が、小児自由損傷症候群です。自立葛藤症状は「反抗」の姿

ではなく、「反抗に失敗」した姿です。

 しかし通常神経症での自立葛藤は、生育史的退行を起こして、虎の威を借り

ている姿である偽自立よりは、ずっと望ましい姿です。

 

 

 偽自立から転落した姿である自立葛藤症状とそれに付随する根本情態性反応

は、清水の舞台から飛び降りたほどの勇気ある行動です。もっとも、この勇気

は偽自立様態と比較した場合に言われうるだけで、真の勇気は自立の旗印を掲

げて反抗(第一反抗期)に立ち上がることです。

 

 

 

 自己主体価値に於けるこの反抗はしかし、「蛮勇」に過ぎず、人間に於ても

っとも勇気ある行動は、精神主体性となることです。

 従って、精神神経症の子供を持つ扶養者は、その責任が重大なものとなり、

もしこれを押し潰すようなことでもあれば、悔恨を残すものとなります。

 

 

 

 偽自立から飛び降りたところは根本情態性の海です。偽自立のない精神神経

症では、tenp-33 の〈通常神経症の偽自律から崩壊主体へのレベル推移〉の説

明文の最後に記したような転移によって葛藤の海へと入っていきます。

 そのもっとも深いところは上位葛藤域です。その深みの水は冷たくて、身体

に起こる根本情態性反応も激しくなります。上位葛藤主体の中でも意志の自由

力を更に奮い立たせることのできる主体は、更に果敢に深みへと降りていきま

すが、そこで能力の限界を超えた場合、主体性の崩壊が起こります。

 

 

 

 

 

    〔睡眠時主体性崩壊〕

 

 

  主体性の崩壊は、本能に達する二つの誘導路が断裂して起こります。それは

本能から身体エネルギー(自由力)を汲み上げることができない状態であり、

同時にまた主体理念を本能に組み込むことができないことです。

 成人神経症では、主体性崩壊は主体的に意識がしっかりしている覚醒時に起

こります。精神病でも同じです。しかし、小児神経症の自立葛藤に因る主体性

崩壊は、睡眠時にのみ起こり、上位葛藤主体でも中位葛藤主体と同じく通常崩

壊像のみを呈します。

 

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-7.htm

            〈通常崩壊〉

 

 

  幼児はたとえ自立を果たしたとしても、未だ自律には程遠いところにありま

す。それ故、自立しても「前意識的主体性」と呼ばれ、自律理念に関しては扶

養者から供給を受けねばならない主体性なのです。これを言い換えれば、幼児

は”自律した「意識的主体性」から生育史的退行を起こしている”、というこ

とができます。即ち、自律度座標上で自律できずに転落し、生育史的レベルを

ひとつ落とした自立で、通常神経症の場合は偽自律しているに過ぎないことに

なります。

 

 

 この条件が、小児神経症主体をして昼間の覚醒時に於ける主体性崩壊から免

れさせます。つまり、未だ真に独立した主体性ではなく、自立葛藤はその意味

で背水の陣を布いてはいないからです。

 主体性崩壊は自前の自立理念を立てようとして、これに失敗したときに起こ

ります。幼児の場合、これに失敗しても自律理念が扶養者から他発されて供給

されています。幼児は原意識的主体であるとともに、同時に前意識的主体性で

あるからです。

 

 

  しかし、睡眠時には扶養者による他発性理念は届いて来ないので、覚醒時に

充分な葛藤を起こせなかった幼児は、睡眠時に葛藤を持ち越して、そこで主体

性崩壊が起こることになります。成人に睡眠時主体性崩壊がないのは、覚醒時

に充分な自律葛藤が為されるからです。成人にもときに金縛りや夢中遊行が起

きますが、その時点で自律はもとより自立も覚束ない存在観に退行しているか

らです。

 

 

 睡眠はその目的を、本能存在の価値に基づく休息をこととします。主体存在

はこの本能存在の自然性を無視して、ときに夜を徹してその肉体を酷使します

が、常人であれば、その酷使は長く続かないはずです。

  睡眠をまったく必要としない超人的な人も偶に存在しますが、これらの人は、

意識を深く喪わない程度の微睡(まどろ)みか、脳神経機能を酷使する仕事か

ら解放される編みものなどの単純作業を多くこなし、同時に肉体の酷使を避け

るという、なんらかの休息を本能存在に与えているはずです。私の友人にもま

ったく眠らなくとも頭はいつも冴えている人が居ますが、体が保たないという

ことです。

 イルカはゆっくり泳ぎながら、左右の脳を交互に休ませることが知られてい

ます。

 

 

 睡眠時には、従って、認識力に宿るに過ぎない主体性は、本能に較べて、覚

醒時より相対的にその存在性を後退させています。睡眠は本能主導なのです。

このことが上位葛藤での深崩壊を防ぐことになり、睡眠時主体性崩壊では通常

崩壊像のみが生じます。

 

 

 動物は主として脳活動の活発なレム期の夢見で、その日の体験を整理します。

脳の休眠度が増すノンレム期にも単純な夢は発生するので、レム期に準じて存

在観の整理が行なわれているでしょう。

 その日の自己のパーソナリティの点検は、葛藤が多ければ多いほど、つまり、

不満足の要素が多ければ多いほど、夢は活発になるでしょう。自由損傷主体の

アイデンティティは”自立した主体を達成する”ことにあるので、このアイデ

ンティティに照らして明日の為にパーソナリティの補正、確認、強化を行なう

のです。しかし、そのパーソナリティのシミュレーションの過程で強化に失敗

すれば、主体性崩壊が起こります。

 

 

 睡眠時主体性崩壊は、とくに入眠一〜二時間目の夢で多く起こります。入眠

一〜二時間後に深いノンレム睡眠からレム睡眠への移行が行なわれます。レム

期、つまり夢見活発期に、夜精、夜糞、夢魔、金縛りが生じます。またレム期

を挟む前後の、身体休眠度が減ずるノンレム期に、夜尿、歯軋り、夜驚、夢中

遊行が起こります。夜尿はレム期にも起こるので、夜精、夜糞はノンレム期に

も起こると思われます。

 

 

  この睡眠時主体性崩壊に於けるレム、あるいはノンレムで起こりやすい症状

の区別は、tenp-33 の〈睡眠時主体性崩壊〉の表で類別した〈感情型〉〈官能

型〉に関わりないもので、とくに重要なものではありません。また、現在まで

に報告されている区分を提示したまでで、将来的には以下のように病理が明き

らかにされるだろうと予測します。

 

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-33.htm

                       〈睡眠時主体性崩壊〉

 

 

 ノンレム期は知感覚をはじめとする身体活動度をレム期より増加させ、反対

に認識力を低下させます。レム期はその反対です。従って、主体はノンレム期

には知感覚誘導路を主に使って身体を誘導し、レム期には主として認識誘導路

によって身体誘導を行なうのです。

 

 

 しかし、症状は、次に説明する”自由、自由の無、根本情態性”の自生世界

観の表出なので、”自由”の表現としての”夜精、夜糞、夜尿、歯軋り、夢中

遊行”は、身体活動の活発なノンレム期を利用することが、本来的に妥当です。

 また”夜驚”は”根本情態性”の表現で、やはり身体が活動するノンレムに

起こるのが適当でしょう。そうすると”夢魔、金縛り”は身体活動が低下する

レム期に起こることが推察され、観察結果と符号します。

 

 

 主体性が崩壊すると、存在を構成する諸能力が自由に活動をはじめて、妄想

と幻覚が生じます。主体性崩壊中の意識は、4つに類別される意志発動様式に

応じて、“自由”“自由の無”“根本情態性”の各主体の構成要素の意義を、

それぞれの方法で演じることになります。これを「自生世界」と呼びますが、

詳しくは【そううつ病、精神分裂病】、あるいは【成人神経症】の講座を参照

してください。

 

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-8.htm

         〈各症状症型の自生世界の価値観〉

        ∴「症状症型」の項に示された4つの型が「意志発動様式」です。

 

 

 

 tenp-33 の〈睡眠時主体性崩壊〉の表に示された各症状は、夢の中で崩壊し

た主体が演じる自生世界での妄想と幻覚の中で生じるものです。

 

 

 

 乳児は、”生後四〜五箇月頃をピークに、歯軋りや頭を振る”などの昼間活

動を行なうが、これは先自由意志の習得行動です。”六箇月頃の人見知り”は、

その先自由意志を定着しはじめた頃に、対象の圧力を感じはじめた結果で、主

体的生育史としては正常です。

 

 

 崩壊時の「歯軋り」は”自由”の概念の了解です。歯軋りは口唇を含む口腔

の快に結び付いています。歯軋りをするとき唾液の分泌が盛んになるので、歯

軋りを「夜唾」としても同じです。あるいは歯軋りのない「睡眠時の涎」も同

じカテゴリーです。      

 

 

 

 

 

  〔覚醒時深崩壊〕     

 

 

 小児神経症では睡眠時にのみ主体性崩壊が起こりますが、次に見る特殊な場

合に主体性の深い崩壊が起こります。

 

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-29.htm

              〈深崩壊〉

 

 

 そのひとつは「熱性痙攣」で、いまひとつは「息止め発作」、「泣き入り引

付け」、「呼吸停止発作」などとも言われる「癇癪発作」です。

 よく似たものに【小児心身症】の付随症状である「憤怒痙攣」があります。

 

 

 熱性痙攣は「上位自立葛藤」で、癇癪発作は「偽自立の(+・+)域」で起

こるものです。

 癇癪は偽自立の(+・+)域の最満足の症状です。「癇癪発作」はこの偽自

立症状に付随して現象する覚醒時の症状です。一〜六才にあり、特に自立葛藤

が最大になる三〜四才に集中して起こります。

 

 

 癇癪は自立葛藤のもたらす症状ではあるが、自立葛藤それ自体ではありませ

ん。「癇癪発動」は真の自立から退避した「仮象の自立」のごり押しです。

「癇癪発作」に於ける主体性の深崩壊その他の現象は、小児にとってはまった

く予期せぬ出来事であり、それ故仮象の自立に関して更に付随する症状に過ぎ

ないものです。

 

 

 「熱性痙攣」もまた自立葛藤そのものに於てではなく、自立葛藤がもたらす

根本情態性反応である「発熱」を原因とします。小児の原主体性は”「発熱」

という本能の根本情態性発動”に打ち倒されて「深崩壊」するに至るのです。

 自立葛藤による根本情態性捕縛がある上に、その反応による急性の発熱とい

う、重畳される根本情態性の発動が、主体を自立葛藤の深い内省域にまでおび

き寄せ、そこで主体性を崩壊させるのです。

 

 

 tenp-33 のA〈偽自立=原主体レベル〉の座標は、B〈自立葛藤=自立主体

レベル〉の座標から根本情態性を強引に跳ね退けて達成した「仮象の自立」で

す。その(+・+)域に納まる癇癪主体は、その四領域の中でも、根本情態性

を徹底的に排除した主体です。

 根本情態性を排除する力が大きいことは、根本情態性への抑圧がそれだけ大

きいことです。根本情態性は本能の情官態です。もし存在から本能を徹底的に

排除してしまうなら、存在はそこで終焉します。存在の基体は本能なのです。

 

 

 「癇癪」により急激に自由量が拡大すると、本能の根本情態性の押し返しは、

背水の陣を布いた反跳となるでしょう。

 「癇癪発作」といわれるのは、主体の崩壊直前に、「泣き入り引付け」や

「息止め発作」の名があるように、癇癪を起こして泣き喚いている呼気の状態

で、突然に息止め発作が起こるからです。息止め発作は根本情態性が発動され

たことを示しています。

 

 

 根本情態性は不安、絶望、混沌、恐怖の情官態です。驚いたときに人は息を

吸います。アッと声を瞬間的には上げるが、次の刹那にはもう吸気状態になっ

ているはずです。根本情態性は救いを求める情官であり、その呼吸状態は充分

な酸素を肺腑に求めているからです。

 

 

 この「吸気」が泣き喚く「呼気」とぶつかり、そこで息が止まることになり

ます。息の根を止めるそれほどの力である根本情態性が、息止め発作を前兆に

して、幼児の無制限性の原自由を押し潰すのです。

 幼児は「てんかん」児と同じく、深崩壊していくことになります。息止め発

作の症状が出た時点で、留まることもあります。

 

 

 患児の頭を軽く叩くだけで、息止め発作から主体性崩壊に至ることもありま

すが、際限を知らない無制限性の原自由に於ける癇癪の性は、些細な障碍にも

耐性を喪ってしまっているのです。

 

 

 

 

 

     治療編

 

 

                ―――――――――――――――――――

 

     現代の自由損傷症候群の特徴は、精神神経症と通常神経症

     が不可分に混合した、広く深い罹患と、通常神経症の偽自

     立(偽自律)の蔓延状況にあると言ってよいでしょう。

 

                ―――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

          小児神経症の治療

 

           

 乳幼児にとっては扶養者は必要不可欠の掛け替えのない存在です。胎児はも

ちろん、乳幼児が生きる社会はあらゆる意味で、扶養者その人であると言って

言い過ぎではありません。

 人間の主体的生育は、およそ四段階を以ってなされます。はじめに”自由の

概念”を獲得し、次いで”純粋な自由意志”を発達させ、次に身辺社会性を得

て、最後に成熟した人類社会性に到達します。

 

 

 この最後の段階では、かつて自分がその立場であった子孫をこの世に生み出

すという大仕事が待ち受けています。この大仕事を滞りなく成し遂げるために

は、自分の生育史が重要な手本となります。小児神経症の子供を持つ扶養者は、

この手本に誤りがあったのです。そのすべてが誤りであった場合には、もっと

悲劇的な生き方に方向付けられたでしょう。

  幸いにも活用できるテキスト部分が散見され、これに修正を施せば十分、世

界に通用するものです。

 

 

 しかし、この修正は、単にテキストを書き直すものではなく、自己の存在そ

のものを問い直し、その誤った習慣を是正することが必要で、一朝一夕にはな

し得ないことが予想されるでしょう。

 脳細胞の複雑な配線をやり直し、他ならぬ自らが抑え込んでいる故に、救い

を叫び求めている本能の声に耳を澄ますまでに至らねばならないのです。

 

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-32.htm

                      〈自己主体性としての自由損傷症候群〉

                      〈自由損傷症候群の家族因〉

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-34.htm

             〈自由損傷症候群の治療〉

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-4.htm

            〈精神疾患の発症力学〉

 

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-8.htm

            <精神主体性の存在度>

 

 

 小児神経症主体は世界を恐れています。その恐れの本態は上の参照頁にも述

べていますが、この本文の先で詳しく述べています。

 世界を脅威に感ずることは、存在することが”不安、絶望、混沌、恐怖”に

その内部から侵襲されているからです。存在の内部に深淵があり、外部の力に

よってこの深淵に墜ちかかってその崖っぷちにしがみついている状態が、自由

損傷症候群の自立葛藤状態です。

 

 

 外部の力は、本来は、幼児が自らの力で深淵を覗き込むために支える力とな

ければならないものを、まるで反対のことをしているわけです。その外力の全

権代表は先に述べたように、扶養者その人です。自由損傷症児にとっては、親

は保護者であるとともに、力の脅威となっているのです。自由損傷症児、とく

に通常神経症児の親は扶養の名の下に、「保護」と「抑圧」という二面性を隠

しています。

 

 

 「保護」が正当な人間的育成である場合と、自由拡張症候群への育成である

場合とがあります。資本主義社会にフィットするように仕向けるなら、後者で、

社会に伸していく後ろ盾となることです。

  「抑圧」もまた、純然たる力対力の圧力である場合と、自己主体価値による

精神主体価値への圧迫である場合とがあります。前者は通常神経症に、後者は

精神神経症に罹患させるものです。

 

 

  「抑圧」によるこの通常神経症と、「保護」による自由拡張症候群の育成を

促進した場合の、混淆ではなく、複合した症候群が、如何に私達の社会を甘い

蜜の湧き出る花園とし、いわゆる”カッコよく”巧みに、その実、身のない

”鯉のぼり”のように生きる様を、少し描写してみることにします。

 それによって、自由損傷症候群単症の自立葛藤が死に体ではなく、実りある

ものへと転化し得る力動を秘めていることを知ることができるでしょう。

 

 

 

 

 

  〔自由拡張性自由損傷症候群〕

 

 

 私達人間社会は主体的存在によって運営されています。もし私達に主体性が

ないならば、環境破壊も戦争も、また諸々の社会的諍(いさか)いもありませ

ん。従って、軍事力も、警察力も、司法力も存在しないでしょう。

 こゝには二重の意味があり、一つは本能の個体性世界であればということ、

もうひとつはすべての人間が精神自由損傷症候群であればということです。

 

 

 古代世界への懐旧は、無意識的摂理主体世界への懐かしさに駆られてのこと

です、この自然に従う主体性の世界は優柔不断で、何事も速やかに展開しない

世界ですが、争いのないのが何よりです。

 精神神経症主体は理念を本能存在からすくい上げた、生の本能の情官に置い

ています。言い換えれば本能で動く主体性です。これを半主体性といってもよ

いでしょう。

 

 

 来日した他国の人々、とくに西欧の人々が我が国の社会に暫く居て感じるこ

との第一は、自国に居たときに感じていた主体的緊張がなくなって、存在がゆ

るんで楽になったということです。

 これは通常神経症を含む日本社会の主体的自由損傷を言い当てているととも

に、精神神経症の存在の本来性を以って生きる生き方に感応した結果です。

 

 

 精神神経症主体に接すると命の懐かしさに触れることができます。偽自立

(偽自律)主体を除く自由損傷主体全体との接触の印象は、自己主張しなけれ

ば社会から弾かれてしまう不安と恐怖が拭い去られて、価値的には安定しない

までも、沈没の危険性を感じないものです。

 

 

 キャリア・ウーマンやシングル・ライフ志向は、物質文明社会での世界的傾

向でしょうが、我が国の現象については、この沈没の危険性なき国民性がその

助長に大いに力を貸しているものと思われます。

  キャリア・ウーマンやシングル・ライフは同じひとつの土壌から発していま

す。我が国の場合は、キャリア・ウーマンは男女同権を出発点にしていること

から、もはや遠いところに来てしまっており、今やシングル・ライフと同じ土

壌に移植されています。

 

      ∴キャリア・ウーマンやシングル・ライフ志向:

      「志向」は、「やむなく選択せざるを得ない状況におかれている」

       こととは、区別されます。

 

 

 キャリア・ウーマンがシングル・ライフと結合するのは、自由損傷症候群が

自由拡張症候群のオブラートに包まれて自律葛藤を凍結した場合です。とくに

我が国の場合は、自由損傷主体が脂ぎった真性の自由拡張主体からの退避行動

として、「モノ(一流商品、一流の地位、旅行や種々の免許や趣味や遊びや習

い事を行なえる能力と身分)」所有に埋没した姿であると言えます。

 一流商品についての知識が豊富な「モノ語り症候群」という命名をした方が

いますが、「モノ」に取り憑かれた彼女達の実態の一面をよく表わしています。

 

 

 これらの「モノ」へのあらゆる意味に於ける所有努力は、あたかも自身が

「モノ存在」となったかのように「モノ」を身に纏うために為されるようです。

もはや自由拡張主体と自由拡張度を張り合うために為されるのではなく、物質

文明それ自体を対象として、物質のアイデンティティを身に付けた奇妙な主体

性であるかのようです。生活そのものが、「肉体のないネーム・バリュー」と

化した存在といえるでしょう。

 

 

 この新たな精神疾患は、「モノ」に囲繞(いにょう)された世界であるゆえ

に出現したもので、この疾患主体に於ては、自然も箱庭や盆栽のように愛でる

もののようです。「モノ舞台」上で”演じられる”「モノ存在の物語」を紡ぐ

ことに執念を持つこの疾患主体は、生身の存在が浸されている根本情態性世界

から隔絶された世界の仮象の存在性を、自身で了解しながら演じているようで

す。

 彼女は、あたかも俳優のように、いつでもこの舞台で演じるために、根本情

態性に呪縛されている肉体を抜けて、登場してくるのです。

 

 

 急速に増加している、中年以後の「熟年離婚」や、壮年以後のもはや他人関

係に近い「家庭内離婚」の主たる原因は、男女両者の、この「モノ存在性」に

あると言えるでしょう。

  脂ぎった自由拡張症候群が精神主体性に対して仮象の存在であるなら、この

「モノ存在」は仮象の更なる仮象と言えます。この仮象の仮象は、肉を持つ存

在性を放棄して、モノ世界の中に自らを結晶化させてしまっているのです。

 

 

 

 

 

  〔人間的症状を持つ頼もしい子供たちの治療〕

 

 

 子供達にもこの仮象の仮象である「非現実存在」への陥穽(かんせい)が、

いつも待ち受けていることを、考慮に入れて置かねばなりません。この意味で

は仮象の自立である偽自立(偽自律)には肉体が見えており、ひとまず安心し

てよいかも知れません。

 

 

 しかしながら、下の参考に挙げたマガジンの、第9号〈忙しい子供〉の号に

に見るような子供たちの現実が、「モノ」に掛かり切りになる「非現実存在」

の形成の前兆をもたらしていることを勘案しておく必要があります。

 

  

 

 

 人間主体の形成は、他の主体の存在を前提としています。自由損傷症候群主

体が偽自立や自立葛藤症状を持つのは、他の主体の圧力に対処した結果です。

暖簾に腕押しするように、押しても何も存在性の共感が返ってこない「非現実

存在」に接した空しさの後で、この根本情態性に呪縛されて様々な人間的症状

を見せてくれる肉体ある存在は、頼もしい限りとも言えるのです。

 そこで私達はこの頼もしい子供たちに、もっと頼もしく育つ未来を夢見るこ

とができるのです。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-32.htm

                      〈自己主体性としての自由損傷症候群〉

                      〈自由損傷症候群の家族因〉

 

 

 成人神経症主体と異なって、小児神経症主体の治療は扶養者の対応如何に係

っています。幼児に及ぼす扶養者圧は、幼児の自立時の根本情態性との対峙力

をもぎ取ってしまいます。その扶養者が幼児を自由損傷主体にさせてしまう対

応を、上のtenp-32 で確認してください。

 

 

 人間に於ては、意志を起こすその各瞬間毎に本能の根本情態性との対峙が必

要となります。人間のみならず、すべての存在は根本情態性を確認してはじめ

て、存在の生きる時空を知り得ますが、人間の場合は本能を所有、支配してい

るので、根本情態性は本能の被所有の叫びとして主体に「対峙」してくるので

す。

 

 

 自由の本質は所有、支配の無制限性であり、本能の本質は謙虚な調和です。

本能は自由力を植え込まれるときに激しい拒絶反応を示します。それが他なら

ぬ「対峙してくる根本情態性」なのです。

 主体性とは自由の力に他ならず、この力は本能身体から自由に使用できるエ

ネルギーをもぎ取ってきてわがものとするのです。そのエネルギーには本能の

価値は色付けされていません。従って、小児が主体性となるべく自由に向かう

とき、その自由は本能価値が無となった存在性を持つことによって、眩暈の時

空へと質的変化を起こします。

 自由と無が同義となるのです。しかもこの無の背後には常に、存在性を奪わ

れて《無》にされてしまった本能の叫び、即ち根本情態性が現象するのです。

 

 

 生命はいつ何時でも《有》をこととしています。本能の存在は例外なく、

《有》から生じて《有》に還り行くのです。地上の無機物、有機物界が《有》

であり、存在はこの《有》が時々に生じさせた一突起に過ぎません。

 人間だけが『無』を抱いているのです。この無は価値が消滅して途方に暮れ

ている無であると同時に、無制限性の可能性です。

 

 

 自由が身体へと侵入していくときは、何か無制限的な可能性の企みを抱いて

います。この可能性がまた同時に『価値の無』であるのは、”自由”が生の本

質ではなく、生を超え出て、生の本質を覆すような何かあるものである、とい

うことを生が嗅ぎ取っていることを表わしています。

 ”自由の可能性”は、生の慎ましい調和を破壊する疾ましさを持っているこ

とを、《価値の無》の叫びとして根本情態性が示すのです。

 

 

 自由の可能性とは、自由を内省して主体理念を据え付けようとするときに、

また小児が始めて原自由意志を持とうとするときに、自由が眩暈することです。

その眩暈の時空が《本能の価値の無》であり、その背後の根本情態性の叫びな

のです。

 

 

 

 幼児の自立時内省に於けるこの”自由の眩暈”の定かならぬ足元を、更に掬

(すく)っているのが、他ならぬ扶養者です。

 

 

 

 小児が自立理念の内省を行なうとき、その自由の抑圧による『価値の無』の

深淵が、根本情態性の”不安、絶望、混沌、恐怖”の本能の叫びを木霊(こだ

ま)させながら打ち広がってきます。扶養者がこの立ち竦んだ小児に、「墜ち

たら死ぬよ!」と脅したり、「危ないからそっちに行っては駄目!」と引き留

めるなら、彼は自由損傷症候群に罹患するでしょう。

 

 

 その深淵は、人間が主体性になるためには、必ず相眼見えなければならない

ものです。この深淵と対峙せずして独立主体はあり得ません。

 その日が来たら、彼の足は自然必然的に深淵に向かわねばならない運命を知

っています。もしそれが運命でなければ、小児神経症などには罹患することは

ないでしょう。

 

 

 

 小児がこの運命の自立期を経過するに当たって、扶養者がなすべき旅支度は、

”自由”という充分な糧と、「どんなことに出逢っても、懼(おそ)れずに目

を開けていなさい」という助言です。

 深淵に相眼見えた小児は、身も竦む底知れぬ時空に吸い込まれそうになりな

がらも、じっと耐え続けることが、これによって可能となるのです。

 

 

 

 十分な旅支度と、覚悟を与えられた小児は、そこに何を視たでしょうか。眼

がその薄暗い時空に慣れるに従って、無の深淵と見えたそこに、本能の調和の

海がゆったりとたゆたっている様子を見い出すでしょう。そして、その海を惚

れぼれと眺め入っている自分を見い出す筈なのです。

 

 

 

 存在が拠って立つのは、他より別つ自己存在の意識です。”大地から一人、

すっくと立つ”。樹木はみんな、そうしているではありませんか?

 

 

 

 彼ら存在界に下りて行けば、根本情態性は自らの友となり、根本情態性は

”感謝、愛、善、美”の価値を連れて来てくれるのです。

 

 

 

 

    了

 

 

 

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