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                  成人神経症 第一回入門講座 

                           治療編    
             
  週2〜3回配信   1998.10.21.    通しNo.11      読者数 219 人

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             目次           自由損傷症候群の治療  

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                           本号の参照URL

    http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-4.htm
            〈精神疾患の発症力学〉


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                   自由損傷症候群の治療  



  先号で述べたように、上位自律葛藤主体の最大深度の崩壊は、少なくとも物
質文明の爛熟状態にある国々では影を潜めました。しかし、その分、自由損傷
症候群は精神神経症、通常神経症とも底辺は拡大されています。パニック症候
群という目新しい名称がブームを起こしていることは、そのことを表わしてい
ます。


 上述の底辺の拡大と、頂部の崩落は、同一現象の二面に他なりません。更に、
相対的な全体量も圧倒的に増加しており、歴史的に見てこの増加を左肩の上が
りに対して右肩が異様に上がった凹型曲線グラフに描くことができるでしょう。


  物質文明黎明期(産業革命時)には圧倒量の、無意識的主体性を含む前意識
的主体性が神経症に罹患し、現代では物質文明の有無を言わさぬ組織的浸透が
個々の存在観への全体体制を敷いており、この大樹に凭(よ)り掛からねば生
存さへ不可能な状態にあります。大樹に凭り掛かることは、自前の存在観が不
必要であることであり、誰も自律の為に自己の存在観を定立する作業などに手
を染めないでもよい、専制的な物質先導体制が敷かれているのです。
  従って、この専制体制は、自由拡張症候群に引けを取らぬ位の圧倒量の自由
損傷症候群に支えられています。


 文明は個人を道具環境の中に絞め殺しつゝあります。各個人は、テレビを見
ているのか、食事をしているのか、自身考えることすらないかのようで、食事
をすることにかこつけてテレビを見るのであろうと、私などは考えます。ある
いは新しい調理道具の具合を見る為に料理を作るのであろうと考えます。


  一事が万事この調子で事は運ばれていき、人は物質文明に物をねだり、「小
児返り症候群=偽自律」にどんどん罹患していくようです。文明はねだられる
まゝ、次々と物を繰り出し、人はこの手品の世界で「仮象」を生きるようにな
ってしまいました。まるで子供騙しの世界のようです。



 道具は道具に過ぎず、道具に振り回されては人間が無くなります。これを情
報や知識や趣味などを加えた「モノ」に置き換えても同じです。                                      


 NO.6 で述べたように、自由損傷症候群の自由の畏縮の本態因は、扶養者と
同じく、根本情態性を否定的アイデンティティとして自己の存在観から排除し
ようとしていることにあります。自由が自己の現実性へと可能態となるとき、
即ち内省の自由の無に這入っていくと、自由は無制限性と無の両義性に引き裂
かれ立ち竦みます。その立ち竦(すく)んだ場所で、無が必然的に開示する根
本情態性の吸引に怯え、怖じ気づくのです。
  これを本能の方から見れば、下の参照の「本態因」の説明にあるように、
「反自由力である本能の調和力」が、「主体の自由力」に反発して「根本情態
性」を発動しているのです。

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-4.htm}
            〈精神疾患の発症力学〉



 自由はその本質である無制限力になろうするとき、常に自己の無力に付き纏
われます。無制限力は根本情態性を斃して進み行かねばならず、これを畏れて
無力へと撤退すると、そこでも力の真空状態となった自由へと根本情態性が吸
い引まれてくるのです。


 力を持とうとしても、また力を放棄しようとしても、いずれにしても人間に
は根本情態性が付き纏います。自由拡張症候群は、無制限力を発揮して根本情
態性を打ち破ることを選び、この問題に決着をつけますが、自由損傷症候群は
根本情態性を畏れて進退に窮します。彼は自己の自由力を持て余し、自律の課
題を宙ぶらりん状態に放置するのです。偽自律症状はその放置の意図を現在進
行形で推進している状態に他なりません。

      自由拡張症候群;ここでは根本情態性を「打ち破る」と言いましたが、
       これは自由損傷症候群から見た場合で、精神主体性から見れば、
       これは根本情態性からの「逃走」に他ならないのです。


 自由損傷症候群主体は、身体成熟に見合った自律に達しなければならず、自
律に達するまで何度でも圧力に立ち向かわねばならない運命にあります。
 葛藤症状が継続されていることは、自由損傷状態にありながら進退に窮して
いることです。自律は、偽自律への遁走(モラトリアム)を止めるとき、そこ
でのアイデンティティを脱ぎ捨てる決意を持ったとき、はじめて真剣な目標と
なるのです。

    ∴モラトリアム:支払い猶予。心理学では自律の猶予、またはその期間。


 進退に窮した葛藤状態を脱する道は、圧力に打ち克つべき自己の自由力を拡
張することの他にはありません。自由の拡張は自由の可能性を打ち開いていく
ことです。可能性とは即ち、主体理念を打ち立てゝ”所有、支配、権力、翻弄”
の行動成果を上げることです。自由の可能性はしかし、常に無と対にあり、自
由の可能性に赴くことは根本情態性と相眼見えることに他ならないのです。


 偽自律の偽りの自律に気付いたとき、自由損傷主体はいよいよ本格的に自律
の課題に立ち向かいますが、世界観を形成しないままこの課題へと赴けば、根
本情態性に捕縛され、主体性が崩壊する危機の中で立ち往生します。
 葛藤状態にあるなしに拘わらず自己主体性では根本情態性の捕縛は、”自由
を見遣りながらの背進態”で捕縛されます。彼は常に根本情態性を振り返り見
て、根本情態性から遁走しているが、しかし、対象圧力に圧されて根本情態性
へとその遁走の姿勢のまゝ背進させられるのです。
 前門の虎、後門の狼の状態こそ、他ならぬ自由損傷症候群主体なのです。



  精神神経症の自律の目標は精神主体性にあります。しかし、通常神経症の目
標は自由拡張主体です。加えて、両者ともどもその片手には自由拡張主体が握
られています。
 精神主体性と自由拡張主体はともに自律という意義では同じ範疇に括られま
すが、自由拡張主体が常に「症候群」を付して呼ばれるなら、自由拡張主体は
人間としては真に自律してはいないことを示しています。



 それ故、精神主体性の自律を《確律》と呼び、自由拡張症候群の自律から区
別します。

      ∴確律:自立一般を確立と呼び、また自律一般を確律と呼ぶことも
        ありますが、括弧付きの《確律》は、上の意味で使われます。


 自由拡張症候群の自律自由は、摂理価値を殺害して得られたものです。従っ
て、自由損傷主体が自由拡張主体に見る圧力は、他ならぬ摂理価値の死体と、
現場に転がっている血塗られた凶器なのです。自由拡張主体の力は「摂理を滅
ぼし得る力」として自由損傷主体に迫ってくるのです。


 そこで、先の前門の虎、後門の狼は、摂理価値と根本情態性であると言い換
えることもできます。自由拡張症候群は摂理価値を殺害して身体という自由力
を手に入れ、今度は手にした自由に存在の時空(4つの価値)を与えるために、
身体を内観して根本情態性に出遭うはめとなるのです。
 これは精神主体性といえども同じです。しかし、精神主体性は主観を立てた
後、摂理価値を介抱して蘇らせることに努力するのです。


  主観は自由それ自体です。精神主体性もまたこの自由を不可抗的に持たねば
なりません。主体性の通常崩壊は認識主観が理念を立てることができずに崩壊
します。崩壊は認識主観が潰えるだけではなく、自由主観の自由の領域も潰れ
ます。自由主観は認識主観が立つ限りに於て、その概念の力で立っているので
す。両主観が潰えて、なお主体意志など立ちようもありません。
  主体性崩壊では主体機能のすべてがもろとも壊滅します。しかし、通常崩壊
に於ては、崩壊直前の主体の状態が帯磁するのです。それが崩壊主体と呼ばれ、
帯磁主体と呼ばれるものです。


  自由損傷主体にとっては、従って精神主体性からも威圧を受け取りますが、
それは一方的に圧される力としてではなく、敬愛の念を「引き出される力」と
してです。従って、精神主体性は自由損傷主体の主たる圧力対象とはなりませ
ん。


 原典では、前門の虎、後門の狼の配置は二重門であるのか、あるいは攻め落
とすべき砦の表門と裏門であるのか、どのようであるのかは知りませんが、こ
こでは自己主体性が本拠地としている砦の内空間が、本能の外空間との境界に
設けた表門と裏門とします。


 自己主体性はここに植民しようとして、本能存在のただ中に砦を築いたとこ
ろです。ここを拠点にして、彼はその帝国主義を実現しようとします。本能存
在という大陸全体に彼の帝国を打ち立てることが最終目的です。
 虎と狼は本能存在の摂理価値と根本情態性です。この二頭を殺害すれば、砦
を拡張できるのです。外空間は本能の自然環境が展開しているので、至るとこ
ろに虎と狼は生存しています。領土を拡張した砦の前後の門には当然、拡張し
た先に住んでいた虎と狼が居ます。


 新たに生まれてきた者も、そこかしこに砦を造って住み着いていきます。自
由損傷主体の砦は自由拡張主体の大きな砦群の中に在って、それぞれ小さなも
ので我慢しなければなりません。
 人口が増えて砦は密集してきました。自由損傷主体の前門は自由拡張主体の
前門のすぐ目の前にあり、そこには既に息絶えた虎が血だらけの凶器の傍らに
斃れているのです。犯行に及んだのは誰であるかは、言わずとも明きらかです。


 彼は自由拡張主体の帝国主義を懼(おそ)れて後門まで後ずさりしていきま
す。そして、そこで狼に出会(でくわ)すのです。喰われてしまえば彼の主体
性は崩壊します。この前門と後門の狭間で、彼が小さな砦の中をパニック状態
になって走り回っている姿が自律葛藤症状です。
 彼がもしこの恐慌状態を脱したければ、前門を出て自由拡張主体の砦に攻め
入るか、後門を出て狼を殺害するか、どちらかを選らばねばなりません。そう
すれば砦を大きくして、更に強固にする資材を手に入れることもできるのです。


 狭い砦の中で戦々恐々としているか、打って出るか、このどちらの選択をし
ても、彼は自己主体性のまゝです。
 しかし、いまもし、砦を崩して素手でその大地にただ一人立つならば、虎も
狼も威圧を覚えず、彼は自然界の掟に従ってその存在が尊重されるでしょう。
彼はそのとき、無垢の摂理主体性になったか、精神主体性になったかのどちら
かであるのです。


  無垢の摂理主体性は、すべての人間がそうである場合に有効です。摂理主体
性は自然に感応した主体性で、自然に範を求めて生きる主体性です。そうした
世界では反抗期は明確でなくともよく、個体的な自律さへあれば事足りるので
す。実際に、物質文明の波に洗われていない太平洋の島々ではそういう例があ
ります。



 古代の日本でもそうでした。そこでは、”私”は自己を離れて、自然、他者
を問わずに環界に打ち広がって行き、また、自然も他者も”私”の中に自由自
在に這入って来ます。
 こうして、存在は互いに交流し、一つとなるのです。”私は彼であり、彼は
また私である”世界は、自律した精神主体性での”配慮し合う”ことに等価で
あるものです。



 摂理主体性が生き々々し得る自然が消滅した私達の環境では、摂理主体性で
は事足りず、精神主体性となることが要求されます。自由拡張主体の支配に対
しては、まろやかな摂理価値では不十分です。
 主体的自由を存分に拡張して、《確律》した、強力な精神主体性が求められ
ているのです。そうでなければ、この生存環境の危機にあって、これを押し止
めることは不可能でしょう。それほどに、自由拡張症候群の病者の群れは地表
を覆い尽くしているのです。



 自由拡張症候群は私達の偽らざる姿です。しかし、私達の多くは自由損傷症
候群を含めて虚偽症候群以下の自由力度にあり、一群の狂気症候群の強大な力
に引っ張られている、子羊です。私達は自由力度をアップしなければなりませ
ん。そして、その最強度となった自由を精神価値にシフトさせて、精神主体性
へと自己を《確律》し、私達自身が変革する力となって、《新らしい人間の潮
流》を巻き起こすものとならなければなりません。


  根本情態性へ背進態で押しやられるのではなく、面と対峙して、進退を決し
なければなりません。精神神経症主体も、通常神経症主体も、もう一方の手に
握られている自由拡張症候群を批判捨離して、自ら逃げ道を捨て、自由損傷主
体一本に絞り、その背水の陣に於て、この主体を精神主体性へと陶冶しなけれ
ばなりません。



 そのために、彼が為さねばならない最初の行動は、世界観を揺るぎ無くする
ことです。このためには自分で考える習慣をまず身に付ける必要があります。
ありとあらゆる情報と知識を最初はランダムに取り入れることが必要です。
 その努力を怠ることが、自由損傷症候群状態を抜け出すことができない最大
の理由なのですが、この壁を是が非にでも、突破しなければなりません。負ん
ぶに抱っこのいままでの習性を続けるなら自由損傷症候群からの脱却は諦めね
ばなりません。



 これに平行して、人間性にとっての最重要の「価値観」を定めます。この講
座を受講された方は自然に定まりました。人間が採り得る価値観は自己主体性
価値群か、精神主体性価値群かのどちらかです。この対置された価値群は、地
球上のみならず、宇宙の万物が共有するもので、あなたが宇宙の最果てを探求
できたにしても、この他に価値が見い出せることはあり得ないでしょう。
 簡単な二者択一です。問題は、これを頭ではなく、内観によって《確律》す
ることです。


  私達が日々生きることを得るのは、細胞の数にすれば、何兆もの命のお陰な
らば、この恩に報いるに躊躇は要りません。頂いたものをお返しするという簡
単な作用反作用の原理の遂行だけなのですから。


  個体存在は有から生じて有に還りゆくことを認識しています。それゆえ、個
体性としてその存在の時空を知る必要から根本情態性が生起しますが、彼にと
っては根本情態性は、それ自体としては逃げまどう筋合いのものではありませ
ん。


 ところが人間の主体的自由は、無から生じて無に還りゆくのです。自由に眩
暈しているのは人間だけです。空中にある直径1m の玉を想像してください。
その滑りやすい玉に乗って危ういバランスを取っているあなたが居ます。そこ
からの落下は無限落下で、止まることを知りません。


 主体的自由を持つあなたは、自分の死を想像したとき、その無限落下を味わ
ったことでしょう。内省は自由が無になったときに可能となります。人は日々、
一日のうちでも何度も意志決定せねばならないので、そのつど、この無限落下
を行なっているのです。不安、絶望、混沌、恐怖は、それぞれその墜ち方の相
違です。頭から落下することもあるでしょう。足を先にして墜ちていくことも
あるでしょう。その違いがそれぞれの感情の違いなのです。



 重要なことは、これら根本情態性の情官を、はっきりと味わうことなのです。
その味をはっきりと知ったそのとき、あなたは柔らかい褥(しとね)にくるま
れるようにして着地していることを知るでしょう。そこが、他ならぬ《有界》
なのです。



 そのとき、あなたという存在は、動植物昆虫微生物の境地に這入ったのです。
大地から突き出した、大地の成分で出来た、大地に調和した《自然(=自ずか
ら然らしむる者)》に至り着いたことを、根本情態性と確かに対峙した、その
努力の先に見い出したのです。



 存在は”有から生じて有に戻る”ことを幸せとします。”無から生じて有を
達成せん”と、餓鬼のようになっている間は、無限(無間)地獄の夢を見てい
るだけです。