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そううつ病、精神分裂病 第一回入門講座
病理編 1
週2〜3回配信 1998.08.13. 通しNo.5 読者数 168 人
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〈主体性の様態と疾患〉
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│ 幼児共生精神病 │
│ │
│ 脱力睡眠発作 │
└───┬─┬──┘
│ │
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┌────────────┤個体神経症├────────────┐
│ └─────┘ │
│ │
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│ ┌─────┐ │
│ │分立本能型│ │
│ └─┬─┬─┘ │
│ │ │ │
│ ┌──────┐ ┌─┴─┴─┐ ┌──────┐ │
│ │ 分立主体型 ├──┤摂理神経症├──┤ 分立主体型 │ │
│ │ 摂理主体型 ├──┤ てんかん ├──┤ 自己主体型 │ │
│ │ 本能統覚型 │ └──┬──┘ │ 主体統覚型 │ │
│ └───┬──┘ │ └──┬───┘ │
│ │ │ │ │
└────┐ │ ┌────┐ │ │ │
│ │ │ │ │ │ │
└─┼─┘ 仮設自由損傷症候群 │ ペ│
│ │ │ ッ│
│ │ │ ト│
│ 仮設主体性 │ ・│
│ │ │ 家│
│ │ │ 畜│
│ │ │ な│
│ ┌───┴───┐ │ ど│
│ │┌─────┐│ ┌─┼─┐ │
│ ││ 本能存在 ││ │ │ │ │
│ ││ (身体) │├──┘ │ └────┘
│ │└─────┘│ │
│ └───┬───┘ │
│ │ │
│ │ │
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│本能価値内観 エネルギーの所有│
│ │
│ │
摂理主体性 自己主体性
│ │
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│ │ │ │ │
意識的 無意識的 │ 自由拡張 自由損傷
摂理主体性 ┌─摂理主体性 │ 症候群 症候群
│ │ │ │ │ │ │ │ │ │
┌─┴─┴──┐ │┌─┴─┴─┐│┌─┴─┴────┐┌─┴─┴─┐
│ 精神主体性 │ ││精神病 │││ 狂気 ││通常神経症│
└──────┘ ││ │││ │└──┬──┘
││心身症 ├┘│ 虚偽 │ │
││ │ │ │ │
││行動精神病│ │ 判断停止 │ │
│└─────┘ │ │ │
│ │ 根本情態性遮蔽 │ │
│ └───┬────┘ │
│ ┌───────┘ │
└───┐│┌───────────────┘
│││
自由損傷症候群
│ │
┌─┴─┴─┐
│精神神経症│
└─────┘
∴本能存在から上は仮設自由損傷症候群の様態です。
∴人間の存在質量はすべて本能存在にあり、主体性は主観が我観を通じて
自由の概念を与えることによって成立しています。
∴「精神神経症」は自己主体性をベース(=基体とする主体性)としてい
ます。その様態は自由拡張症候群、あるいは自由損傷症候群です。
無意識的摂理主体性の方は、仮想的な主体性として維持しています。
「精神神経症」に於ては、この仮想性は自由損傷症候群状態にあること
です。
従って、ベースの自己主体性の方が自由損傷症候群であるなら、通常神
経症と精神神経症の、この二つの神経症を持つことになります。
∴「精神病」「心身症」「行動精神病」の場合も、精神神経症と同じよう
に自己主体性を基体の主体性としていますが、仮想主体性の無意識的摂
理主体性の方も、無意識のまま自己主体性と両立して「基体」となって
います。
この場合は自立(自律)自体が課題ではないので、図では精神神経症の
ように自由拡張症候群と通常神経症からの個別の結合は省いています。
∴資本主義社会に生きるかぎりは、すべての人は自己主体性であることか
ら免れ得ません。しかし、精神主体性は自己主体性であることを、苦痛
を以って受け入れます。他に選択肢はないからです。
しかしまた、それ以前に人は”自由”という『原罪』にあり、自ら進ん
で自由拡張症候群や通常神経症の自己主体性に堕ちる可能性を持ってい
ます。
あるものごとを行なうのに、精神価値を以って始めたにも拘わらず、本
質を忘れて躍起となってしまっていることが往々にしてあります。
『原罪』は、純粋に本能に生きる存在に対しての『負い目』なのです。
人はこの『原罪』を打ち消すためにこそ『大きな愛』を行使していかね
ばならないのです。
キリストはこの範を垂れました。ブッダは、『原罪』を『愛=慈悲』で
打ち消した後に残る『生そのものの苦痛』を観て取り、これを本能存在
としてのあるがままにある『摂理調和=空』の中に内包しました。
ドイツの哲学者のショーペンハウアーは、この『空』から『愛』を押し
出して、生は『苦』そのものであり、『有るよりは無い方がよい』と観
じました。
旧約聖書のソロモンは、ブッダと同じく王族の栄華の極みの生活の後、
”自由”の本質である『永遠・無限性』の観点から、自らの『存在の被
造性=有限性』を反省して、『一切の空しさ』の意味で、『空』に到達
しました。
これら4者のすべては人間の内省の究極の姿に至っています。
古代インドのウパニシャッドの哲学は、人生を4期に分けましたが、そ
の最後に「林住期」なるものを設けて、人生の義務を果たした後の後4
半期を、一人、林に分け入って住み、「死を静かに迎える」ことを奨め
ています。
即身成仏は能動的に餓死することに他なりませんが、餓死による自殺は
「自然自殺」として、その他の自殺の「必然自殺」から区別されます。
「林住期」は決して即身成仏ではありませんが、それに近いものです。
「林住期の思想」は、キリストを除く3者の思想の帰結でもあり、キリ
ストの説く大きな愛は、この潔い「死の林住期」と対になって機能しま
す。自らの磔刑による死はそれを顕にしたものに他なりません。
私達は後4半期に入る前から、若くしてこの「死の林住期の思想」を持
つことが必要です。「死の林住期の思想」は私達人間の基体である自己
主体性を矯め、愛の思想にその場を譲らしめるのです。
∴そのとき私達は精神主体性となり、その基体を本能価値に置くことにな
ります。しかしながら、まったき愛に到達した途端に、私達は再び元の
場所へ転げ落ちるでしょう。そうしてギリシャ神話のシジュフォスのよ
うに、重い岩を再び山頂目指して運び上げることになります。この繰り
返される努力の過程こそが、人間をして愛を可能となさしめるのです。
重い岩を運び上げている状態は根本情態性と対峙する内省に他なりませ
ん。精神主体性の内省は、”死=無”を観じて、根本情態性の不安、絶
望、混沌、恐怖にたじろぐことなく、従って、「死の林住期の思想」を
わがものとして内なる自己主体性を矯め、圧迫していた本能価値を顕と
することです。