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 3 小児精神病 (小児自閉症)

 

病理編

 

                                      価値不全

 

 

  小児自閉症は単に自閉症とも言われますが、それはこの疾患が5〜6才を過

ぎ、更に年令を重ねても、そのまま持続するからです。しかし、基本的に幼少

時に罹患した病像のまゝであるので、ここでは「小児自閉症」と呼びます。

 しかしながら、小児自閉症は精神病なので、「成人精神病」に対して「小児

精神病」と呼ぶべきです。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-6.htm

             〈価値不全症候群の各存在度〉

 

 

 精神病は価値不全症候群のひとつで、「価値不全症候群」は、上の参照座標

に見るように、当然除かれる(+・+)域の他の領域を埋める三症候群により

構成されます。そのうちこれから論述される小児精神病は、もっとも重度の

「価値不全」に罹病します。価値の自由度も現実の良度も(−)域に転落しま

す。

 

 

 精神主体性の主体度の(−・−)域では、下の参照座標で見るように、“嘆

く”に範疇される各根本情態性に留まります。しかし、精神病では“嘆き”と

いう生物的正当性を踏み越え出ることによる「本能価値の崩落」を体験します。

この崩落は価値不全症候群が「仮想主体性」であるから起こり、精神主体性で

は起こり得ることはありません。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-8.htm

             〈精神主体性の存在度〉

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-14.htm

           〈仮想主体性と精神神経症、発病〉

 

 

 人間の自由は言語概念の所有に拠っています。その「自由」によって主観が

成立するのです。主観は言語概念を本能意志に与えることによって、主体意志

を成立させています。

 「無意識的主体性」は、摂理価値を言語概念にする能力を持たないので、

「精神理念」に拠って立つ主体意志は成立しません。しかし、無意識的主体性

は、無意識的であれ、摂理を彼の主体意志に了解していることは確かです。こ

の了解は、仮の言語概念によって為され、摂理価値は彼に於ては「何かあるも

の」という言語概念、及び主体理念として措定されるのです。これが仮想主体

性です。「何かあるもの」は、仮想概念であり、仮想理念です。

 

 

 本能価値の崩落は、本能価値を注観できなくなり、それまでの無意識的内観

状態が消滅することです。

 “愛おしまれない”という痛み、“恵まれない”という畏れ、“労られない”

という憂い、“慈しまれない”という悲しみが彼を襲い、これを言語的に表現

しようとして仮想主体性の自立(自律)を画策するが、これに失敗して主体性

が根こそぎになるのです。

 

 

  身体の本能というセンサーに、もはや何ものも感受されなくなったとき、本

能は無用の長物となるのです。これを私達は廃用萎縮という言葉で表現できま

す。愛無き世界にどうして愛を感受するセンサーなど必要とするでしょうか?

 鏡はそれを覗き見る者のためにあります。しかし、彼の鏡には誰も覗きに来

ず、曇ったままなのです。それどころか、いま彼の鏡は大きな砂粒でこすられ、

傷だらけになり、更にはまた、石つぶてが飛び、あばた状態になり、最後に岩

ほどのものがぶつかり粉みじんとなったのです。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-5.htm

             〈主体性の様態と疾患〉

 

 

 無意識的主体性は意識的主体性である精神主体性とともに、上の参照図のよ

うに「摂理主体性」と呼ばれます。主体の情官、即ち、意志が次第に(−・−)

域の奥深くに沈降していくと、絶望、恐怖、不安、混沌に「捕縛」され、摂理

価値は不全の色を濃くしていきます。

 

 

 調和の希望が潰えたとき、本能存在であるならば餓死か諦念を選ぶでしょう。

無意識的主体性はこの二つの他に、いまひとつの選択肢を持ちます。”摂理を

放棄する”というこの選択肢のうちの、ひとつは摂理も摂理による仮想理念も

”共に”放棄して「主観」だけで生きることです。もうひとつは、やはり摂理

を放棄することにより、”結果的に”仮想理念を散逸させてしまうことです。

 

 

 前者は主体体制の温存に無頓着な小児の、後者はこの号から合流した前講の

読者の方々が知悉している、主体体制を残遺意識に記憶する成人の選択肢で、

両者共、主体性は「崩壊」に至ります。本講からの読者はその後者の場合を下

のURLで追ってください。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-7.htm

             〈通常崩壊〉

 

 

 この資本主義世界では人は望むと望まないに拘わらず、自己主体性を立てゝ

生きなければならず、その手に貨幣を一度も握らずに生きることはできません。

 

無意識的主体性(摂理主体性)は仮想的主体性であり、この主体性は常に自己

主体性の周りの場に漂っている仮想的なものです。「無意識」は先天的付与の

自然の摂理に関しています。

 

 

  下の参照図にみる「前意識的主体」は、自己主体性の理念が自前のものでは

なく、扶養者に付与されるものであることを示します。前意識的主体性は未だ

自律に至っていない段階の主体性で、少年期を指します。広義には乳幼児期の

主体性も含んで言う場合がありますが、原自由期は「原意識的主体性」、先自

由期は「先意識的主体性」と呼びます。

 

 

  扶養者が精神主体性であるなら、精神理念(摂理価値)を少年に与えます。

前意識的主体性はこの扶養者付与理念による精神主体性の場合にも、そう呼ば

れます。その場合には「前意識的精神主体性」と呼ばれることになります。原

意識、先意識の場合も同じです。

 

 

⇒{参考資料1}〈自己主体性の理想生育史〉

 

 

 

 

 

 

 

 

                                            原自由

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-15.htm

         〈自由の行動から見た生育史〉

 

 

  4才の第一反抗期は自己身体を所有して自立する時期です。そこに至る「自

立葛藤期」の主体を「原主体」と呼び、その”身体を所有することに関する自

由”を、「原自由」と呼び、その意志を「原自由意志」と呼びます。

  生後3ヶ月までは「主観定立期」ですが、この主観体では未だ自由の概念と

しての存在です。次の生育段階の「先主体」では主体の体制が整いますが、身

体の全量を所有できずに、身体のおよそ半量を占めるに止まります。「先主体」

は「仮設主体」とも呼ばれ、本能とその身体を二分している主体性です。

 

 

 これに対して、「原主体」はその身体をほぼ自由にできるようになった主体

性で、自立を目前にしています。しかし、自立は身辺世界の社会性ある自由で

あるのに対して、「原主体性」は自己一極性の自由を主張します。その自由は

世界に唯一であることを任じているので、扶養者はこれに扶養者付与理念を与

えて躾るのです。

 4才を過ぎると今度は第二反抗期に向けて、「自律葛藤」に入ります。

 

 

  小児精神病は、主観体を除く第一反抗期までの小児、即ち主体的意志の実行

可能な先主体性と原主体性が罹患します。原主体性の場合は第一反抗期過程に

入り、前意識的主体性への過渡段階にあっても罹患します。

  つまり、「自立自由」が成立していなければ小児精神病となり、成立してい

れば成人精神病となります。

 

 

 自立している前意識的主体性は身辺社会に於ける身体的自由の理念を自前の

ものにしていますが、「人格的社会理念(自律理念)」は扶養者付与の前意識

的理念によって保たれます。未だ自立に達しない小児の場合、「身体的社会理

念(自立理念=身体所有理念)」を彼の先自由、あるいは原自由の上に扶養者

によって上書きされます。

 

 

      ∴この講座では未だ言及していませんが、これまでの講座で、自立期ま

        でに生じる身体所有期(一次性徴)を「身体所有理念の確立のため」

        としてきました。一次性徴は「原自由(原理念=無制限性の自己一極

        の自由理念)」のための知感覚(口腔器、尿器、肛門、性器)刺激で、

        これによる身体そのものを所有する自由は、「原自由期」に達成され

        ます。

       「自立」は、原自由期の躾を内化して身辺社会に自立する理念を自前

    のものとすることです。この自立理念は、下の参照図の、「知感覚誘 

    導路」ではなく、自律理念と同じく「認識誘導路」で成立します。

    種々の扶養者付与理念も「認識誘導路」で誘導されます。扶養者付与

    理念は自前の自発理念に対する他発理念のひとつで、教師や友人、

    またメディアから得る他発理念もあります。

 

 

⇒{参考資料1}〈主体の本能所有=その主体意志組み込み経路〉

 

 

 小児精神病ではこの扶養者付与理念は、自己主体性価値です。一方、仮想主

体性の方は先天的な摂理価値によって、真理の存在を照らし出されています。

この仮想主体性の方もまた、本能によって先自由、あるいは原自由に上書きさ

れた摂理付与理念の体制と言えます。それが無意識的主体性ということです。

以後、先自由は原自由に含まれるものとして話をすすめます。

 但し、次号の〔症例〕の項で、先主体は原主体への生育史的ステップアップ

の葛藤に於て、また原主体は前意識的主体への自立葛藤に於て小児精神病に罹

患することが述べられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                [主観+主体意志]体制

 

 

 患児は“愛されない”絶望との闘いに於て、闘いに力尽きたとき、摂理が放

棄され、それと同時に仮想理念は消滅します。

 この状態はまた同時に、患児自身の仮想主体性(無意識的主体性)と自己主

体性(原意識的自己主体性、あるいは先意識的自己主体性)の、tenp-14 にみ

るような内的闘争の結果の、摂理と所有の両価値の崩落であるということがで

きます。

 

 

  既に自立して主体体制を確立している成人の場合には、仮想主体性の自律を

賭した自己主体性との闘いに破れて、主体性が空中分解するのですが、原主体

性である小児の場合は、自立を目前にしながらも、未だ身体的自立を果たして

いない生育史的段階なので、そのアイデンティティは「原自由」、即ち主観に

のみ存し、摂理価値を見失った後はこの「原自由」に撤退する形になります。

 

 

  原自由の世界は、他者との葛藤のない自由一極性の世界です。葛藤がないと

いうことは主体性の維持に画策しなくてもよいということで、主体性にこだわ

らない様態では主体性の空中分解を体験することはありません。

 領土戦争に破れた日本国は占領軍によってアイデンティティ崩壊を体験しま

したが、比較アイデンティティが元々ない原自由には主体性の崩壊ということ

は問題外の出来事なのです。原自由の世界では全世界が彼の自由一色に染まっ

ているからです。従って、原自由意志は”無制限性”の”所有、支配、権力、

翻弄”の意志なのです。

 

 

 摂理価値を放棄した患児には原自由だけが残されています。”原自由”は自

由の無制限的な概念であり、主観です。主観体制だけの存在には、主体性に付

きものであった根本情態性が感受されることなく、この存在は必要となるその

つど、”身体を使用する存在”となるのです。原自由が身体を使用している様

態が、「主観+主体意志体制」です。

 

 

 

 

 

 

                    症例     

 

 

                       【先主体】

 

 

 発症期は早く、生後六ヶ月から一歳で発症します。生後六ヶ月であれば、一

語文を発する能力が未だない、喃語(ウー、アーなど)の段階での発病です。

 

 

  先号で述べたように、先主体性が原主体性にステップアップすることが発病

契機となります。この早い発症例の後に見る遅い発症例は、第一反抗期を発病

契機とします。この二つの発病契機の間で発症するときは、誘発契機が”生長

過程に内発される発病契機”を触発するからです。

  簡単に言えば、ステップアップが完全に為されていなかったので、発病契機

がそこで”ぶり返された”ということです。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-4.htm

             〈精神疾患の発症力学〉

 

 

 仮想主体性と原意識的自己主体性を天秤に掛けて、完全に後者の方にシフト

するか、原意識的精神主体性一本に収束するかしていれば、小児精神病の発病

は避けられたでしょう。

しかし、原意識的自己主体性となる為には、存在の真実である摂理の呼びかけ

は宿命として迫ってきます。また、原意識的精神主体性となる為には、扶養者、

及びその身辺環境の自己主体価値の圧力は運命的な力となって伸し掛かってき

ます。

 宿命と運命の狭間で、彼は自己の存在を支えるのが精いっぱいなのです。

 

 

  先主体性から原主体性へのステップアップの葛藤は、本能存在である身体を

完全に我がものとすることです。「仮設自由損傷症候群(てんかん等)」の成

人患者が、その疾患に罹患しているかぎりは先主体性(仮設主体性)であり続

けるように、小児精神病の先主体性の患児にとっても、本能身体を自由力でね

じ伏せねばならない原主体性への跳躍は、摂理の宿命に照らして不可能性とし

て迫ってくるのです。

  そういう困難から、ステップアップは少しずつ、そのつど先送りされていき

ます。

 

                                      

  (早発例=言葉を獲得できないまゝに発症した例)

 

  乳児前期は、定頚三ヶ月、おすわり六ヶ月と普通の生育状態。ウーウー

 など喃語あり。抱くと固くなるか、グニャグニャになり、抱きにくい。静

 かな子供で、育てやすい。ひとつのオモチャで一時間も遊んでいる。

  乳児後期では、家族の真似をしない、指差しがない。一歳で遅い這い始

 め。

  幼児期に入り、一歳半で遅い伝い歩きが始まる。言葉は出ない。一歳か

 らの殴り 描き、積木遊びがない。呼び掛けても振り向かない。偏食があ

 り、菓子、パン、牛 乳、ヨーグルト、ジュースなどを好む。二歳半で表

 情が全く消える。

 

                                      

  先主体性の乳幼児は仮設的な主体性であり、その仮設的な自由意志は身体を

未だ完全には所有していません。彼は身体所有に関しても扶養者の他発性理念

に負っています。身体所有に関する理念(原理念=主観それ自身のこと)は、

扶養者環境にあって言葉を修得することで養われるものです。身体の所有はこ

の主観が知感覚を刺激して身体に侵入していくことです。

 自立に至るまでの、母子分離期を前後するこの生育段階(先自由期)では、

主観が身体を自由に所有して支配する主体体制を習熟することを、もっぱらの

目的としているのです。

 

 

 最初は、この主体体制は身体に仮設的に構築され、本能存在であると同時に、

主体存在であるという二極構造をつくります。これを「分立二義性」といいま

すが、この「分立二義存在」は主体意識であるときにも常に本能が機能してい

ます。つまり、この存在は二つの存在性を生きる両義性であるのです。

  加えてまた、病児では片方の主体存在の方には、仮想主体性という本能を内

観している主体性を包含しています。

 

 

  精神病は本能価値を捨て去ることで発病しますが、分立二義性にある先主体

性では、分立している本能存在と、仮想主体性が内観している本能価値が諸共

に捨て去られることになります。ここでの葛藤は存在の全量を主体化すること

を契機にしているからです。意識の焦点は主観にあるからです。

 

 

 個人差が当然あり、こゝに挙げたのは標準的な一例です。この例では母親が

家に居て育てゝいるが、家族の在、不在にはまったく関係せず、身体的、感情

的に本能的絆が結ばれていなければ、そこに摂理価値が機能していないという

ことであり、乳児は簡単に精神病に罹患すると考えなければなりません。           

           

 

 

 商売や農業に家族が従事していれば、子供は家に一人放置されるか、あるい

は仕事場の片隅の囲いや篭の中で放置されます。一日中、経営する食堂のテレ

ビの前の篭の中で育った乳児もいます。

 家族が子育てに従事している場合でも、上と同じように放置している状況に

あるといえます。内職に掛かりきりであったり、情緒育成に良いと言われる音

楽で子育てを代用したり、あるいは、育児よりもテレビの娯楽を優先したりす

る場合です。

 個人の権利という民主主義の誤解が『本能愛』を駆逐するのです。こゝには、

育てる権利のみがあり、『育てる義務』が忘れ去られています。 

 

 

 

 

 

 

 

                                           【原主体】

 

                                      

  (遅い発症例)

 

  四歳半で突然発症するまでは、精神病兆候が見られず。赤ん坊が家族の

 一人に加わったと同時に発病に至る。

  興奮し、家の中を不穏に走り回り、壁に身体を打ちつけ、言葉を失い、

 視線を合わさなくなり、表情も乏しくなった。物事に怯え、外出を嫌い、

 鏡を見ることに執着し、排泄がうまくできなくなった。

  六歳頃から常同行動が多く出るようになった。               

 

                                      

 四歳半といえば幼児期を終え、二歳頃からの第一反抗期も終える頃であり、

通常なら、以後は自律理念の形成へと向かわねばならないときです。この症例

は第一反抗期を終えようとする時期の遅い発病です。

 

 

  本能身体の全量を原自由意志に従わせるようになると、幼児はその自由の体

制を強化しつつ、複雑な人間社会の知識を吸収しながら身辺社会的主体性へと

自立していきます。

 扶養者付与の原意識的理念が自己主体性理念であっても、摂理内観がしっか

り為されている幼児は、扶養されている引け目から自己主体性価値を受け入れ

るが、同時に仮想的主体性を仮想して、本能の摂理価値を救い上げることがで

きます。

 

 

  第一反抗期に自立の課題を受けて、仮想主体性を正位の座に座っている自己

主体性に替えて正位の座に押し上げようとする努力がなされるが、ついに力尽

きてこれに失敗するのです。

 

 

 遅発性のものも、早発性のものも全く同じ発病心理機制を持ちます。発病は

最後の強い一と押しによって引き起こされるが、早発、遅発の差はこの発病契

機が何時来るかの相違だけなのです。

 

 

(症例は二つとも Leo Kanner によるものを軸に典型例としてまとめたもの)

 

 

 

 

 

 

                                 第一反抗期渦中の発症(遅発例)

 

 

  前号の二つの症例のうち、早発例はあの説明で明瞭ですが、遅発例について

説明が必要です。この第一反抗期の渦中にある患児は、当然、第二反抗期の自

律への歩みは未だ先のことです。彼女の原理念(身体所有に関する原自由)に

は身辺社会的理念が扶養者付与理念として上書きされています。

 第一反抗期はこの扶養者付与の上書き理念を我がものとする葛藤期です。

 

 

 この扶養者付与理念は原意識的理念といわれ、身体所有に関する理念、即ち

主観を成立させる理念は原理念といわれます。紛らわしいので、前にも述べた

ように原意識的理念に代えて少年期の前意識的理念を借用使用してもよいでし

ょう。

 その場合、以下のように踏まえて置く必要があります。自立葛藤は身辺社会

的理念の原意識的理念の自発所有に関しており、自立すれば今度は社会的に自

律する前意識的理念が原意識的理念に扶養者から上書きされることになります。

 

 

 

  遅発例の患児は既にその半量の「自立」主体性を獲得しています。あるいは

未だ定着していない進行形の自立主体性にあります。曲がりなりにも社会理念

に自立して参画できるこの主体性により、発病直後、”興奮し、家の中を不穏

に走り回り、壁に身体を打ちつけ”る、成人精神病の「緊張病性興奮」と全く

同じ心理機制が出現します。下の参照座標の(−・−)域の「純粋鬱」がそれ

です。これは先号の参照に見たtenp-7の、主体性の〈通常崩壊〉像を形成する

一こまです。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-11.htm

        〈根本情態性の背進了解による個体度〉

 

 

  しかしながら、自立は未だ確かには成立しておらず、自立にかかる身辺社会

的理念のその大部を、内発(自発)性でない扶養者付与によるものとしていま

す。この扶養者付与の原意識的理念は捨て去られても、主観の原自由の理念は

健在で、彼女はすぐにここに立ち戻ることができるのです。

 

 

 発病は扶養者付与の自己主体性からシフトして、仮想主体性を自立させよう

とすることを契機としています。通常、自己主体性や精神主体性に自立するの

であれば、先に述べたように「第一反抗期はこの扶養者付与の上書き理念を我

がものとする葛藤期」という表現でよいでしょうが、ここでは、「内的必然性

を持たない扶養者付与の原意識的理念の影響を拭い去る」為に『自立』するの

です。

 

 

 

遅い発症では4歳の第一反抗期渦中で発症する。

 発病は扶養者付与の自己主体性(“所有・支配・権力・翻弄“の意志を持つ

主体性)価値からシフトして、仮想主体性(病児では”感謝・愛・善・美“

の意志を持つ精神主体性)を自立させようとすることを契機としている。病児

は、「内的必然性を持たない扶養者付与の原意識的理念(価値)の影響を拭い

去る」為に『自立』しようとして失敗する。

 

 

 彼女は発病直後には、既におおまかではあるが成人並みに成立している主体

性の中で崩壊するが、やがて直ぐに「内的必然性を持たない扶養者付与の原意

識的理念(価値)の影響を拭い去る」。一言でいえば、”無制限性の原自由に撤

退する”のです。”無制限性の原自由”とは、病児に於ては“所有・支配・権力

・翻弄“の資本主義的現実価値を剥奪した真の無制限な自由の意志です。

 

 その意志は資本主義社会の利害得失を目論む意志とは成らず、利害抜きの制

約無き“所有・支配・権力・翻弄“の意志なのです。

 

 

〈自由の行動から見た生育史〉の表で原主体の項の《原自由》は、先主体、主

観体にまで通低している自由です。原主体は主体性を有しており、その《原自

由》は“自己一極性”であり、原主体期はその自由意志を現実(物対象世界)

的価値に従わせた無制限性の“所有・支配・権力・翻弄“の意志として発動し

ています。

 

 

そこに扶養者が資本主義社会に通用する社会的自由としての”所有・支配・

権力・翻弄“の躾(制約=方向性)を行うのです。しかし、病児はこの扶養者

付与の社会的価値体系を放棄し、更にはその底流にある無制限性の意志自体も

放棄するので、その主体性の崩壊は、主観体にまで撤退する“主観一極性”と

なるのです。

 

 

 

  こうして患児は、発病直後の主体性崩壊から覚めると、原自由(自己一極→

主観一極)の世界に没入していくことになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                          存在の弁証法

 

 

 摂理の信仰を放棄して、社会的理念なき原自由意志となった状態、この状態

が精神病児の常態症状です。その存在様態は[主観+主体意志体制]で、この

存在体制は病児の必要性の判断によって、そのつど形成されるのです。病児の

本性は、”自由の概念”である主観にのみ存します。

 

 

 精神病児の絶望は、扶養者付与の自己主体性価値の圧力が、仮想主体性を崩

落の淵へ追い落とそうとすることにより生じます。病児の、この命をもってす

る絶望の深さは、遂に摂理本能それ自体を棄て去る決心をさせました。        

 摂理の放棄は、自己主体性がそうするように摂理の殺害ではないので、摂理

は温存されています。しかし、私達が測ることのできない深い絶望によって放

棄に至ったものは並大抵のものではなく、以後一切の関わりをしない決意であ

り、摂理は主体の遥か奥深くを潜伏して、か細く流れるに過ぎなくなるのです。

摂理は完全な伏流となります。

 

 

 原自由に撤退した病児は、主観だけの存在です。しかし主観は本能を放棄し

ても我観だけは所有しています。主観は我観に拠って立っているからです。主

観は身体を必要とするそのつど、我観を通して身体を所有することになります。

 

 

 本能身体それ自体は放棄されても、そこにもちろん残存しています。しかし、

摂理価値を放棄することは知感覚をも同時に放棄することです。基礎編で述べ

たように、「良―不良」、及び「快―不快」を判断する知感覚なき価値判断は

ありえません。存在は存在度(主体度)の座標を必要とするのです。

 

 

 摂理価値を放棄した病児は原自由であるが、しかし、原自由の主体に於ける

役割である身体を知感覚刺激で誘導する仕事は、摂理価値を放棄すると同時に

失われるのです。

  主観だけの体制、これが摂理を放棄した後の病児の姿です。

 

 

⇒{精神病}〈存在度(主体度、個体度)〉以下の3座標。

 

 

 私達主体存在は本能身体を所有して生きています。主体存在に組み込まれて

いる本能存在は主体意志下に於ても、環界との、また自己自身に於ても調和の

弁証法機構によって独自の存在運動を為しています。私達主体存在は、生命の

この調和の弁証法を基礎にすることによってのみ、その主体性というものを可

能にしているのです。

 

 

        学:

⇒{参考資料2}〈弁証法〉

 

 

  生きることは身体質量を認識力で導くことです。これを”存在の弁証法”と

言います。弁証は対話のことで、弁証法はこの方法です。存在の弁証法は”存

在の意識”と置き換えても同じです。存在がこの世界に恒常性を以って存在し

続けるためには、”調和の弁証法”、つまり、”調和の意識”が絶対に必要と

なります。

 動物は[身体+我観]でこの調和の弁証法を記します。身体は摂理価値です。

我観は個体的自由を宰領する認識力です。基礎編で、この我観は先天的摂理価

値を逸脱しない限りに於て、自由宰領が許されることを述べました。

 

 

  [身体+我観]は[自体+対自体]の公式で表わされます。この意味は、

[質量+機能]で、質量は存在の本質であり、機能は質量の中に包含されてい

ます。

  一個の鉄塊から蒸気機関車をつくることができますが、機関車を溶解すれば

再び鉄塊の姿となります。機関車の各部の機能は、鉄塊という本質の変形によ

って生じた能力で、機能は本質が司っているのです。

 

 

  上は一個の存在に於ける身体と脳神経機能の対話ですが、存在が環境世界に

存在することについても、同じように言うことができます。存在が死に至ると

土中に還り、また空気中に蒸散します。存在は最初、土や空気の質量の中に在

って、原子とその運動作用から生み出されました。植物は一個の小さな種子に

始まって、土中の無機分子と太陽の光エネルギーを捉えて大地からニョキニョ

キ伸びていきますが、すべての存在はこの植物の生長にたとえられます。

 

 

 つまり、私達の体は環境世界に生じた一突起であり、その質量を環境世界に

負い、環境世界という本質のために働く”機能”なのです。これを存在の弁証

法で表わせば、[環境世界+人間]となります。この環境世界は宇宙開闢(か

いびゃく)前の最初の真空にまで溯ることができます。

 

 

  すべての存在は、”本質”と”この本質を展開する機動力”により構成され

ています。これは本質(質量)と展開する力(機能)との相互対話であること

です。この対話の方法が「調和の弁証法」といわれます。

 これに対して、展開力が本質を呑み込んで、あるいは本質の中に侵入して、

”虎の威を借りた狐”のように振る舞うとき、この対話の方法は「所有の弁証

法」となります。

 

 

  存在界の存在はすべて、[自体+対自体]の調和の弁証法で互いに配慮し合

っていますが、人間は[対自体]の我観を所有、支配しています。主観は[我

観+主観]の弁証法を[即自+対自]の”所有の弁証法”で機能させるのです。

  これを存在の弁証法全体で示せば、[身体+〔我観+主観〕]→存在運動

(生きる=総合)となります。調和の弁証法の中に所有の弁証法が組み込まれ

る、この姿が人間なのです。

 

 

      ∴[即自+対自]:これを平易に力学的に示せば、【[即自←対自]→

           総合】となり、←は”所有、支配、権力、翻弄”の力の行使で

           す。即自は、これも平易に言えば、「木偶(でく)の坊」とい

     うことになります。

 

 

 上に見るように、主体存在はその存在運動の能力のすべてを本能に負ってい

るのです。私達が歩く活動を淀みなく行なえるのは、本能の対環界との調和の

弁証法運動の御蔭であることを忘れてはならないでしょう。所有の弁証法は、

本能のこの能力を不孫にも”所有”しますが、この能力を所有してうまく機能

させることができるのは、本能存在を統覚している本能意志を消さずに、その

上に上書きして主体意志を書き込むからです。

 本能意志を消さずにというのは、摂理価値を完全抹殺せずに”潜在化”させ

ながら、身体エネルギーを吸収するのです。

 

                    

 この常主体性の存在の弁証法に対して、精神病児は本能(摂理価値そのもの

である知感覚と本能意志統覚)を放棄しているので、上書きすべき本能意志を

持ち得ません。彼は我観のみを所有し、この我観に産出させた定位と運動の図

式によって身体を動かすことができるだけとなります。彼にとってはもはや身

体は所有の”弁証法”の自体ではなくなります。

 

 

 所有の弁証法では所有的にせよ対話が成立し、そこに所有的親和があります

が、彼にとっての身体はもはや親和するものではなくなるのです。つまり、も

はや所有的にせよ、対象(諸々の存在、及び環界)との弁証法的総合(諸々の

存在の御蔭、あるいは所有的利得を以って生きること)によって自己存在の証

を求めることに関与しないということです。

 それは一方的な自由の行使であり、自己の自由の行使に対する対象からの対

応行動(反応、応答)を求めない状態にあり、世界の存在様態を存在観に認め

ることがありません。

 

 

 病児の自由は存在意識なき無制限性であり、存在意識なき無制限の自由に於

ける存在観では彼の意志一極支配が観じられています。但し、この自由意志一

極支配に於ける、病児各々の「自由意志量」は、罹患するまでの生育環境によ

って異なってきます。

 通常に育っていれば小児神経症に罹患する筈の乳幼児であれば、その自由意

志量は小さく、反対に、自由拡張症候群傾向であれば、理想的な「自由意志一

極支配」が出現します。

 前者は活動不活発な、後者は活動活発な症状を示すことになります。

 

 

 本能の存在運動は存在界との親和を統覚(感受)する為に行なわれます。親

は官能であり、和は感情です。言い換えれば、存在界に対する配慮の働きが、

個々の存在に課せられているのです。この”配慮”は対象を解釈できる能力に

負っています。解釈は、自己の両統覚を対象に「投射」することによって行な

われます。

 

 

 感情と官能の二つの統覚は、それぞれ「身体定位図式」と「身体運動図式」

を持ちます。この図式は基礎編で述べたように、それぞれ「連続―不連続」

「伸張―縮退」の図式概念です。連続は上下に繰り返しタクトを振る動作と考

えてください。伸張は真っ直ぐ伸びていくことです。この二つの運動を併せる

と、脳波のような波形が得られます。不連続、縮退ではこの波形は断続的にな

ったり、あるいは描かれません。

 第9講の[物質存在]で、原子の存在判断がこの波形で為されることが理解

されるでしょう。

 

 

 対象はこの二つの図式によって「解釈」されます。対象が何であるか、また

対象はいまどのような動きを示しているかを知る能力は、我観の能力で、それ

ぞれ概念と体性運動図式で「認識」されます。この能力によって得られるもの

は対象の認識概念です。

 これに対して、統覚を投射して解釈されるものは、生きている対象の意志で

す。意志は身体全体であることを示します。従って、解釈はその存在の全体像

を明きらかにするものです。

 

 

 

 それは自己の感情と官能を持って対象の内部から対象を生きることです。そ

のとき対象は自己自身と同じように”了解”されるのです。

 

 

 

 森羅万象が、こうして自己の存在を投射することによって解釈されます。対

象の意志を自己自身のように解るというこの目的は、自己の存在運動を環界に

調和させ、環界と親密になることを目指しているのです。この生の目的を、対

象の所有と支配のために使用するようになった存在が、人間なのです。

 

 

 生命界は弱肉強食であり、食われる者の恐怖はあります。しかし、生命界に

於て誰が一体他者の肉を食らって得をする者が居るでしょうか。得や損などと

いう価値観は、本能世界にはありません。この価値観は、自己主体性の所有、

支配、権力、翻弄に所属するものです。

 

 

 本能に於ける食行動は、親和の価値を表出する為に行なわれます。食う者と

食われる者の、自体と対自体の調和の弁証法が、これを行なうのです。食べる

意志は食べられる者を質量として求めています。この存在の弁証法は[被捕食

者(質量、自体、本質)+捕食者(機能、対自体、展開力)]です。食べる行

為は”咀嚼(そしゃく)と消化の機能”であり、私達の体はすべて被捕食者の

体から成っているのです。

 

 

 

 本能世界は感謝と愛の調和の世界であるならば、自己主体性世界は感謝に対

する冒涜(ぼうとく)の世界です。その食べる行為によって対象を奪い取るか

らです。

 自己主体存在は親和性によって世界を観ることが、もはやできなくなってい

ます。世界を所有、被所有の関係でしか観ることができないのです。これを人

間自らによる、自然に於ける”疎外”というのです。

 

 

 

 精神病児は、身体を放棄することによって、対象との親和、所有のいずれの

弁証法をも機能できなくなっています。彼の自己一極の世界は、対象の解釈が

棄却された世界で、対象それ自体に意志を見ることがありません。対象は只、

彼の所有意志の所有対象となります。対象はまた、それを所有することによっ

て得をする価値的対象でもなくなっています。 

 

 

 自己一極の世界では他者と力を比較する必要はなく、世界のすべては彼の所

有物であるからです。その所有、支配、権力、翻弄の意志は、われわれのよう

な我欲ではなくなっており、所有競争のない世界にあって、世界は彼の自由一

色で染められているのです。

 

 

 しかし、この自由は彼自身の理由からある困難を伴っています。本能の感情

と官能を放棄した結果、その定位図式と運動図式を使用できなくなっているか

らです。対象を解釈できるのは、対象の立ち居振る舞い、表情に、意志の様態

を汲み取るからです。それは両統覚の図式をあてはめることによって可能とな

ります。

 

 

  何か困難な仕事に立ち向かうとき、私達は”よし!やるぞ!”と意志を奮い

立たせます。背骨はピンと伸び、下腹には力が入り、膝を叩いて立ち上がりま

す。これが”できる!”という調和判断で、存在度の(+・+)域に伸び上が

って、「連続+伸張」判断を示しているのです。体性運動の図式はこの身体の

姿勢を基本にして、次々に変化する体性運動を繰り出すのです。

 

 

 病児は本能意志を切離しているので、身体の姿勢と運動はリモートコントロ

ールのロボットのように外から指令を送って制御しなければならなくなってい

ます。しかし、リモートの微妙な扱いには、やはり身体が持っている図式を必

要とします。

 身体はその統覚機能の、知感覚と情官(感情と官能)の両判断の図式の協応

により、身体の姿勢と運動を、言わば自動的に調整します。感情が湧き起こっ

たとき、それが存在運動であり、生きんとする意欲を示す姿勢が自ずと示され

ているのです。

 

 

 人間の所有力は食の本能意志に、支配力は家族の本能意志に結合しています。

常主体性の自己主体存在にあっても、身体はほとんど自動的な判断を繰り出す

ことができます。

 しかし、身体のこの自動運動を持たない病児は、運動の各瞬間毎に新たに意

志の図式をつくり出しながら身体を動かさねばなりません。

 

 

 その際、指令を送るのは主観です。例えば、“縮める”という官能の縮退判

断(価値概念)は、直接、我観に図的概念を産出させます。これだけでは痩せ

細った図に過ぎません。

 この図を本能の統覚の判断機能に与えて、更に知感覚の判断図式との協応を

調整して身体を動かす為に、病児の主体意志は非常な苦労をして、本能の統覚

機能をコントロールしなければなりません。知感覚刺激で直接、本能意志にア

タックできない状態に置かれているからです。

 

 

 病児の身体のぎこちない動きは、上述した本能の自動的な運動の不能による

のです。私達が葡萄を食べるときの一連の動きは、ほとんど自動化されている

が、彼はこれができません。そこで主観は、我観に図式を産出させて、随時こ

れを統覚に与え続けなければりません。

 

 

 主観は我観に常住しているが、主体意志を機動させるとなると、アニメーシ

ョンフィルムのように一コマずつ、我観という筆と図的概念という絵の具によ

って統覚に描き込まなければならないのです。           

 彼の自己の本能身体を所有する方法は、私達が始めてそれを扱うときの一般

のモノに対するのと同じなのです。

 

 

 通常の自己主体性の所有の弁証法に於ても、この弁証法は本来の弁証法、つ

まり対自体が自体へと融即していく調和の弁証法とは懸け離れたものであるの

で、この弁証法の永い使用は遂に本能を切離するという事態となります。それ

が他ならぬ痴呆症ですが、本能は自由拡張症候群の所有措置によって、腐敗し

ながら、且つ切離されていくのです。

 

 

 

 

          以下略(目次のみ)

 

 

            症状  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                〔我観の支配〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                〔身体の統制努力〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

              〔自由主観、認識主観、主体意志の関係〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

              〔主観の放棄による主体性崩壊〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                〔現実対象界の支配蓄積〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                〔多動と寡動〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

 

  治療編

 

      小児精神病の治療  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

           〔自立期と自律期〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

         〔治療〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

 

 

 

    了

 

 

 

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