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 1 成人精神病そううつ病、統合失調症、不定型精神病)

 

 

 

 

                                        仮想主体性

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-5.htm

                     〈主体性の様態と疾患〉

 

 

 

 摂理主体性の精神疾患は「価値不全症候群」と呼ばれ、「心身症」、「行動

精神病」、それにこの講座の「精神病」の3症候群を指します。価値不全の

「価値」は「本能価値」の意味です。

  行動精神病は、過食や多飲、家出放浪、愛欲への溺れ、煙草や酒や麻薬の中

毒をいいます。「性倒錯」などの「複合症候群」にも行動精神病が複合されて

います。

 

 

  「摂理主体性」は意識的、また無意識的な『精神主体性価値』、即ち”感謝、

愛、善、美”の心を持っていることです。摂理主体性のうち、意識的な主体性

は、自立、または自律している「精神主体性」のことです。無意識的な主体性

は、自立、または自律できていない主体性で、これを「無意識的精神主体性」

と呼びます。

 自立している幼児は精神主体性ですが、自立はもっぱら身体の所有に関して

おり、彼に精神理念を与えるのは扶養者です。従って、第二反抗期以前の精神

主体性は、本人と扶養者との二人三脚で走っています。

 

 

 「自由損傷症候群」は、強迫神経症やヒステリーの名で知られている神経症

の新しい疾患名です。「てんかん」は成人の患者であっても、生育史上の「先

主体」の発達期に固着して発症に至るので、先主体の別名である「仮設主体」

に由来して「仮設自由損傷症候群」と呼ばれます。

 この二つの自由損傷症候群は、いずれも主体性が本来持つべき「自由量」が

不足していることによる疾患です。

 

 

 自由損傷症候群は、その主体的価値によって二つの疾患群に分けられます。

自己主体性価値を巡る「通常神経症」と、精神主体性価値の自由が不足する

「精神神経症」です。どちらも強迫神経症とヒステリーの症状を持ちますが、

精神神経症の方には「かんしゃく、不機嫌、我侭(わがまま)、甘え」という

自立(自律)葛藤に関する人格変異はありません。

 

 

 もしそういう人格があるならば、明きらかに精神価値に矛盾しており、精神

価値に関する神経症ではありません。

  精神神経症の病名は、戦争や災害、事故などの物理的心的外傷を契機とする

外傷神経症に対立する精神因性の神経症に付けられたものですが、外傷は発病

 

の契機ではあるが、疾患素質(本態因)は精神因が形成しています。従って、

この区分は解消して差し支えないでしょう。

 

 

  また扶養者環境から受けた素質が充分に自由拡張的であっても、人間の自由

は、”舟底一枚下は地獄”といわれるように、自由は常に”無”と紙一重であ

り、無への転落を防止するための何の保証もないので、自由損傷は、人間がい

わば持って生まれた運命的素質といえるでしょう。

 

         舟底一枚下は地獄:舟底は別の呼び方であったかも知れません。

 

 

  そういう経緯から外傷神経症に対応する精神神経症の病名を取り外し、この

病名をいままで区分されなかった二つの価値、自己主体性価値と精神主体性価

値の、後者の方に基づく自由損傷症候群の呼び名とします。

  種々の外傷は「誘発因(契機)」で位置づけることができます。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-4.htm

                     〈精神疾患の発症力学〉

        注:「てんかん」のNO.13の、Web参照図

 

 

 通常神経症、及び精神神経症の両者が目指している自立(自律)した主体性

は、自立(自律)できない現状では仮想的な主体性ですが、通常神経症では、

この仮想的な主体性は社会に範があるので、真に仮想的とは言えず、もっぱら

精神神経症でのものを「仮想主体性」と呼びます。

 

 

  仮想主体性は通常神経症が自立(自律)の範としている、資本主義社会の模

範的な社会人ではなく、資本主義社会には決して容れられない精神主体性を指

しています。『全体調和』という理念を持つ人間は、”故郷に錦を飾る”人間

とはまったく正反対の極に位置します。”社会的に成功する”というパフォー

マンスとはまったく無縁な人間が、「精神主体存在」です。

 

 

  価値不全症候群もまた精神神経症と同じく仮想主体性を持っています。仮想

主体性を持つ人間は、社会的に生活する限りは何らかの仮想的でない主体性に

於て、自立(自律)乃至は偽自立(偽自律)していなければなりません。偽自

立(偽自律)は先に挙げた神経症の人格様態のことです。つまり、彼らは仮想

主体性である一方、自由拡張症候群か、あるいは自由拡張症候群の偽自立(偽

自律)である通常神経症という「自己主体存在」なのです。

 

 

  言い換えれば、仮想主体性は自己主体存在が内密に持つことがある摂理主体

性のことで、第一講での「てんかん」等の仮設自由損傷症候群が、本能と主体

性の二重存在性を持っていたことと同様に、価値不全症候群と精神神経症でも

この二重存在性がその疾患の本態を為しています。

 

 

  精神神経症は単独の疾患ですが、価値不全症候群との並症はあります。更に

そのうちの精神病では発病に至る際にかならず出現します。これは精神病が摂

理価値(精神主体価値)

に於ける自立(自律)を賭けるような瀬戸際の存在度にあるからです。

  下の参照座標で、精神病は本能価値(仮想主体性)での生存が(−・−)域

に追い詰められていることがわかります。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-6.htm

                     〈価値不全症候群の各存在度〉

 

 

 

 

 

 

 

 

                                    精神神経症、及び発病

 

 

 

  精神病の発病は他の精神疾患と同じく、〈精神疾患の発症力学〉の図の「発

病因」のインパクトを受けます。もちろんその疾患の本態は扶養者の下での生

育史全体にあります。外傷神経症に対照された精神神経症は上述の意味で使わ

れていました。しかし、外傷神経症が自立(自律)期を正常に乗り切っていた

かというと、必ずしもそうではありません。

 

 

 「発病因」のその力学的見地は「疾病内発」とありますが、図に於て、「誘

発因」としての外傷や災害のインパクトが、「発病因」を促していることから

わかるように、最終的な疾病の解発(発作)は本人の「生物的生長」、即ち、

第一反抗期と第二反抗期にあります。「発作因」は「生物的生長」の「現在進

行形」に他ならないからです。

  従って、外傷神経症のカテゴリーは解消して差し支えありません。

 

 

  『精神神経症』は仮想主体性の自由損傷症候群です。「精神病」の発病は先

述のように、仮想主体性の自立(自律)を図ることでなされます。精神病発病

直前に、罹患度の深い精神神経症が発症します。

 自立に関するのは小児精神病で、自律は成人精神病に関しています。小児と

成人の発病病理はまったく同じですが、その症状病理はまったく異なるのです。

 

 

 小児精神病である自閉症が成人統合失調症と同じ発症原理を持つことを、間接的

に主張する方も少数ながら存在しますが、いまもって器質的な疾患であるとの

見方が大勢を占めています。

 同じことは、そううつ病と統合失調症がまったく同じカテゴリーとして扱われて

いないこと、また精神因性の特定がないことは、精神神経症のみならず、神経

症一般についても同等で、器質的要因の疑いを引きずり、しかも自律神経症状

の強い神経症症状をパニック障害などと名付け、遺伝や器質的原因を振り回し

ている現状が、現代の精神医学の水準なのです。

 

 

 

 パニック障害は我が国だけで300万人の患者があるという推計もあります

が、痴呆症と同期して浮上してきたこの障害は、自然を駆逐した物質文明の必

然的な申し子なのです。

 

 

 

  「パニック障害」は精神神経症をほぼ本態とする、その「根本情態性反応」

です。身体各部の痛みや痙攣、眩暈、動悸、失神、呼吸促迫、呼吸困難などが

その症状ですが、このメカニズムは「上位の自立(自律)葛藤」に失敗して、

主体が”無”となり、その葛藤時に強く主体に所有されようとした本能が根本

情態性を発動することによるのです。この状態を「根本情態性捕縛」と呼びま

す。症状の分析は小児神経症の入門講座で行うことになります。

 

 

  私達、世界の1割を占める先進諸国の豊かな物質文明は、自律の課題を遠く

に押し遣りました。ひと昔前には、自由損傷症候群の主体性の「深崩壊」症状

が多々みられましたが、現代ではほとんど鳴りを潜めました。代わりに精神神

経症の仮想主体性がその代償として根本情態性反応を被(こうむ)り出したの

です。

 

 

  仮想主体性は傍らに自己主体性を持っています。先進国に於ては、自己主体

性は上に見たように自律の課題をこなすのに非熱心です。仮想主体性もまたこ

れに倣ってなんの不思議もありません。

 

      ∴深崩壊:主観が壊滅して主体性が崩壊する現象。てんかん発作はこの

                崩壊現象。

 

 

  しかし、一方では爛熟する物質文明は自然を置き忘れ、抛擲(ほうてき)し、

あげくの果ては破壊するに至っています。仮想主体性の故郷である自然をなん

とかしなければならないのは人情です。仮想主体性は自律を強く要求されてい

ながらも、傍らの自己主体性はこの足を引っ張るのです。

 

 

 こういう理由で深崩壊は無くなり、「上位、中位の自律葛藤」による通常崩

壊と下位葛藤の根本情態性反応のみが、先進国の葛藤症状となっているわけで

す。

  自律葛藤の上中下位の分析などは後に成人神経症、及び小児神経症の講座で

詳しく展開されます。

 

 

 

 成人精神病に於て、発病時に出現する精神神経症では主体性の深崩壊は決し

て起こることはありません。これは精神病の課題が自律そのものにあるのでは

なく、傍らに持つ自己主体性との対決にあるからです。

  成人精神病でのこの対決は本能の摂理価値が放棄されることで決着をみます。

 

 

 

 既に、対決に入った段階で、うちなる自己主体性は仮想主体性に敵対するも

のと見なされるに至っています。”世界と自己との闘いに於ては、世界に味方

せよ”と言ったのは実存主義文学の祖、カフカでした。彼が仮想主体性に味方

するのもまったく同じ理由であったのです。このことはいままでに述べてきた

ように、環境世界が「本質」であり、各存在はこの本質を恒存調和に導く「機

能」であることの敷衍(ふえん)なのです。

 

 

   ∴実存主義:実存は現実存在のことで、生きている人間から、即ち現実

          の状況から世界を捉え直そうとする態度です。つまり、枠組み(通

          念、常識)をすべて取っ払って、実際の存在から再出発して、世界

          を如実に観、そして在るべき理想の世界に到達しようとすることで

          す。

          ”真に人間的な新しい世界を創造する為には、現実のいかなる些細

          なものごとをも取り落としてはならない”、ということが実存主義

          に課せられた命題(作業方法、作業手順=意訳)です。

 

 

 

  彼はうちなる自己主体性に対決して摂理価値を称揚しようと、仮想主体性の

自律の作業にはいります。

 具体的には彼は、うちなる自己主体性と共通の”社会、また扶養者”に対し

て摂理価値の有効性を試みるのです。しかし、彼らの必死の抵抗の前に、彼は

彼の自己主体性を打ち倒すことを躊躇(ためら)うのです。

 

 

 

 仮想主体性の摂理価値は愛であり、感謝です。彼は「自己主体性価値体系に

反逆することは、彼らを愛さないことになるのか」、という設問を抱いて進退

を決することができなくなります。もし彼が、「資本主義的自由の生活には愛

が死に絶えている」ことを、彼らに教えることが、反逆でないのみならず、愛

の業であることの確心が湧いてくるならば、彼は主体性崩壊の危機を脱するで

しょう。

 

 

 

 しかし、結局彼は、自己主体存在の価値体系のゴリ押しの前に弱さを晒け出

し、仮想的主体性の神経症、即ち、精神神経症に陥っていくのです。この弱さ

の力動は、「反逆」が「自責」へと内屈することです。仮想的神経症は通常神

経症のように自由拡張という形而下的な現実的姿を持たないので、「甘え」や

「かんしゃく」などの偽自律主体を持つことはなく、むしろ彼はその反対する

方向へとよろめいていくことになります。

 

 

 その『よろめいた足取り』は、理不尽にも自己に内在する愛を手に掛けねば

ならぬかも知れない自己への信じ難さを抱いています。そして彼はその信じ難

いことを為すことになるのです。仮想的神経症は、この自虐行為を最後にして

その現象を終えます。

 と同時に、彼の主体性は崩壊の中へと入っていくのです。 

 

 

      ∴「主体性の通常崩壊」については、下の Web Page を参照してください。

        「離人症」についても書かれています。これは前講の「てんかん」の

    講座内容です。

        「深崩壊」については成人神経症で参照頁を準備します。

        「通常崩壊像」の詳しい分析は、成人精神病の症状病理として、

    次回配信以後、続けられます。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-7.htm

                     〈通常崩壊〉

 

 

 

 

 

                             主体存在の存在の時空の偏重

 

 

 存在はその生きる目的を、”存在の無”へと常時溯ることによって得ること

は基礎編で述べました。存在は自己の無の内省によって4つの価値を得るので

す。従って、存在の現実的な死に於ても、言い換えれば、その死の瞬間の内省

に於ても、時空の始まりに溯及する死であると同時に、時空の終わりに向かう

死でもあるのです。

 

 

 現実の死は、存在の全時空の”無”として了解され、そこでは四つの価値が

等量をもって、四時空に等速度で消滅します。つまり、本能存在に於ては価値

に軽重はありません。これは彼らの身体が自己のものではなく、環界に所属す

るからです。彼らは自らの力でもって自らを造り出したのではなく、始めに環

界があり、環界によって個体存在に生み出され、そして、環界の中へと帰って

いきます。これは「環境世界が存在の本質である」ことを言っています。

 

 

 自分で自分の体を拵(こしら)えたのであれば、あなたの本質はあなたのも

のであると言えるかも知れませんが、残念ながら、あなたはその体のほとんど

無限兆個もある原子の一個だに自分で拵えることができたのではありません。

この事情をはっきりと了解にまで達してください。この了解を生半可に済ませ

ると真理への到達は、先へ進めば進むほど、程遠いものとなってしまいます。

 

 

 

  『存在の本質は環境世界にある』のです。もっと言えば、『存在は環境世界

が自らの調和恒存を維持するために生み出した機能であり、個々の存在は私達

の体を構成する細胞のように、環境世界を構成している細胞なのです』。

 

 

 

  従って、存在はその死に於て不幸であるどころか、むしろ幸福を感じるので

す。これはもちろん寿命を全うした自然死の場合を言っています。死が本質へ

の帰入であるのにどうして嘆き悲しむでしょうか?

 

 

 しかし、自己身体に対して「所有の弁証法」を行なう人間(主体存在)に於

ては、身体を所有することによって「主体」となり、この主体性によって環界

を「客体」とします。彼の前に彼はなく、彼の後に彼はない。彼は環界に所属

せず、彼にはもはや、帰り行くところはない。彼が始まりであり、彼が終わり

なのです。

 

 

 彼はあらゆるものから孤立し、彼は、彼の生命を駆け抜ければ、それで一切

を終えてしまうのです。彼はゼロに始まり、数十の単位を数えてゼロに消滅し

ます。人間以外の諸々の存在にとっては、物理的な死は「本質への豊かな帰還」

であるのに、人間に於ては「空虚への貧しい放散」となるのです。

 

 

 人間の主体性は、環境世界の諸々を”所有、支配、権力、翻弄”の力を行使

する客体にしてしまい、環界との繋がりを自ら切って捨てたのです。彼は常存

在(本能存在)のように環界に保証されず、彼の存在を保障するのは、たった

数十の単位を数えるその寿命だけなのです。

 従って、彼はその数十の単位にしがみつき、できるだけ永くその時空を引き

伸ばそうとします。つまり、「存在の終わり」を終わらせないことに腐心する

のです。

 

 

 その死後に帰るべき家を持たない人間は、その出生以前の無よりも死後の無

が、彼の存在観に於て巨大化して観じられています。その存在の時空は正三角

形のようになっており、死を表わす底辺は、始まりの時空の頂点が点であるに

過ぎないのに対して長い線として表わされ、そこでぷっつりと切断されていま

す。人間の価値観は集団や休息の本能よりもはるかに、食と家族の本能の時空

が突出して偏重されているのです。

 

 

 ここでは本能といいましたが、もちろん世界を客体化する人間にも本能は無

意識的としては残っていますが、意識化されることはなく、正しくは「本能の

無意識的な存在の時空に触発された主体の存在の時空」というべきです。

 従って、人間に於ては、「所有と支配」の「時空の終わり」が偏重されてい

ます。

 

 

  人間にとってはこのように環界が客体であるなら、その身体もまた「客体化」

されています。主観は、我観を所有することを以って身体を所有し、その身体

を以って環界を所有するのです。

 

        ∴学:

⇒{参考資料2}〈[弁証法]〉  注:[]カッコ付きで検索

 

 

  精神病は存在の四時空に展開しますが、私達に馴染みの、そしてこの講座に

も何人かの方がおられると思いますが、「存在の時間を意識する個の本能」の

終わりの意義を担っている「食(=所有)の価値」を喪失することによって罹

患する『統合失調症』と、「存在の空間を意識する種の本能」の終わりの意義

を担っている「家族(=支配)の価値」を喪失することによって罹患する『そ

ううつ病』の、この二疾患の罹患が圧倒しています。

 この圧倒の意味は、精神病罹患のパーセンテージではなく、罹患度の深さに

あります。それはまた精神の荒廃状態へと至る重篤度のことでもあります。

 

 

 精神病の「時空の始まりの疾患」として知られているものには幾つかあり、

こゝでは以下の症候群が、それぞれ『不安病』と『混沌病』に帰入されること

を記しておきます。不安病、混沌病は新しい「病型」名です。同じように、そ

ううつ病を『絶望病』、統合失調症を『恐怖病』と呼びます。

 

 

               〈不安病と混沌病の症型〉

 ┌──────┬─────────┬──────┐            

 │症状症型  │不安病      │混沌病     

 ├──────┼─────────┼──────┤            

 │主観型   │不安―恍惚精神病 │疎外精神病 │            

 ├──────┼─────────┼──────┤            

 │主体統覚型 │周期性緊張病   │錯乱精神病 │            

 ├──────┼─────────┼──────┤            

 │理性型   │自我精神病    │運動精神病 │            

 ├──────┼─────────┼──────┤            

 │本能統覚型 │         │周期性過眠症│            

 └──────┴─────────┴──────┘            

 

    周期性過眠症は、クライネ・レビン症候群(傾眠期に過食を伴う)と、

月経関連過眠症(月経の周期に一致して起こる)が含まれる。

 

 

⇒{参考資料1}〈主体の本能所有=その主体意志組み込み経路〉

       注:下の「主体の意志発動様式」の参照図。

              行動を意欲する際に、主体の構造素のいづれに力点を

              置くかを決定することは、パーソナリティ(人格)の

       形成にも与ることになります。

 

 「症状症型」は、先号からこの講座に合流した「てんかん」講座を受講され

た方には既に馴染みのものですが、これは「主体の意志発動様式」を表わして

います。但し、ここには「本能統覚型」が欠いています。「本能統覚型」は分

裂病ではその症状がもっとも単純なゆえに「単純型」と呼ばれ、後に他の症型

ともども詳しく解析されます。

 不安、及び混沌病にも当然現れる型ですが、恐怖病と絶望病の単純型に吸収

されているのかも知れません。丹念に探せば見つかるでしょう。

 

      ※周期性過眠症が混沌病の本能統覚型である。

 

 精神病の四つの病型は混合し、また病型間の転症があり得ます。『不安病』

と『混沌病』は再発はあり得るが、二週間から数カ月という短期間で完全寛解

(治癒)に至ります。従って、この二病型の混合型も寛解は早いであろうと思

われます。しかし、これら二病型が残りの二病型に転症発病することは充分考

えられます。

 

 

 「分裂情動精神病」の病名で、『恐怖病』と『絶望病』の混合の報告があり

ます。この混合に、また個々の病型毎に不安、混沌のいずれか、あるいは両者

を混合することはあり得ます。存在は四つの時空のひとつでも欠いては生存は

不能となります。四時空の現実性を奪われているペットや動物園の動物に於て

も、たとえ想念上のものであろうとも、存在であるかぎりは四つの時空を生き

るのです。     

 

 

  『絶望病』と『恐怖病』では、明きらかに疾患の重篤度は、個の本能に発病

し、精神の荒廃状態に至ることのある『恐怖病』の方が重く、この講座では精

神病を『恐怖病』で代表して論じます。『絶望病』の病態はここにすべて収ま

り、「うつ」状態も「そう」状態も、『恐怖病』を論じることで、すべて明き

らかとなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         精神神経症と精神病発病時精神神経症

 

 

 先号でも述べた内容を、ここで少し補強しておきます。

 

 

 単症の精神神経症では、「パニック障害」と並んで、世界的に、またとくに

我が国に「不安神経症」と名付けられているものが多いようです。都市に人間

が蝟集(いしゅう)した状態は、まさに集団の本能の時空が突出しています。

日常を家族の身の回りの世話に追われる主婦のその外出時不安状態は、それを

表わして余りあります。

 

 

 先進国の社会は資本主義の潤滑油で動いている人間の集団で成り立っていま

す。曲がりなりにも家族の愛に暖まっている主婦がこの社会集団に適応しよう

として、仮想主体性の自律発作を引き起こすのですが、もちろん集団適応の

「不安」は発作の最初のきっかけで、彼女の心は不安だけで領されるのではな

く、存在の四時空のすべての根本情態性に捕縛されるのです。「不安」の中に

「恐怖」も「絶望」も「混沌」もにじみ出ているはずです。

 

 

 人間は他の生物に較べて家族との永い関係をもちます。人が生育された基部

はほとんど家族によって影響を受けたものですが、だからといって、存在の空

間の終わりの、「愛」や「絶望」の心のみが、突出して育成されるわけではな

く、『扶養者の態度は、権力的でもあり、所有的でもあり、翻弄的でもありす

る』わけです。 

 

 

 もし扶養者の養育態度が『翻弄的』であったならば、呼吸促迫や呼吸困難な

どの呼吸器に関する症状、また声帯や排尿器官の症状などの、「休息の本能」

の領野に関する根本情態性反応(自律神経症状)が顕著に出現するでしょう。

 

 

 『不安『はその他の根本情態性に先んずる、きっかけに過ぎないのですが、

しかし、不安が先んずるということは、私達の生活する都市が先述のようであ

るからです。加えて、我が国の場合は、主語が曖昧であるといわれるように、

自己が集団の中に散じているという事情があります。

 ”自然に従う”ことが我が国民の伝統ですが、この”自然”は昔は本当の自

然を指していたことは間違いありません。しかしながら、都市から自然が次第

に駆逐されていき、ほとんどまったく無くなったにも拘わらず、”本能を育ん

でくれた自然に従う”という美風のみが残りました。

 

 

 しかし、周囲を見渡しても、野生の意義を汲む”自(おの)ずから然らしめ

る”自然は、何処に見いだせるでしょうか? 何処にもありません。振り上げ

 

た手は必ず下ろさねばならないのは自然の道理です。”自然に従う”心を何処

かに下ろすことが必要です。それが集団の中に下ろされたのです。

 日本人の”集団に従う”「集団主義」は、”自然に従う”心が換骨奪胎され

た結果だったのです。私達日本人(もちろん日本人だけではありませんが)は

見事なトリックを巧みになせる国民です。

 

 

 

 成人精神病は仮想主体性の自律葛藤による精神神経症によって崩壊に至るの

ではなく、自律を断念することによる摂理価値の放棄が崩壊原因となります。

精神病の発病時精神神経症は、摂理価値そのものが仮想主体性から脱落するこ

とを食い止める為に、その無意識的内観を意識的内観へと強化する試みです。

 

 

 

 不安神経症、またすべての自由損傷症候群の主体性崩壊は、その意志発動様

式に拘わらず主観のアイデンティティとすべき理念の擁立の失敗を契機としま

す。自由損傷症候群では「主体的関心」は自律にあるが、精神病の神経症では、

関心は『本能の救済』にあるのです。         

 

 

 

  精神病は”愛されない”という切実なアイデンティティの危機を乗り超えよ

うとして、社会にその範、方向付けを得られずに、孤立無援の状態で発病に至

るのです。

 

 

 

 

 

 

                                     精神病の摂理価値

 

 

  精神神経症も精神病も、ともに正位の座に座っている自己主体性にチェンジ

して精神主体性を立てる試みです。しかし、精神病では自律ではなく摂理価値

そのものの擁立に拘わっているので、失敗すると存在が根こそぎとなります。

精神神経症では主観の所有する理念が倒れるだけで済むが、精神病では内観し

ている身体そのものが持つ先天的価値を主観が見失ってしまうのです。

 

 

  無意識的であるうちは確かにその身体に流れていた摂理価値を感じていたが、

いざ意識の照明をそれに当て、これを描写して言語化しようとする段になって、

そのものの正体が不明となってしまうのです。精神神経症と同じにここでも自

律できないということになります。但し、既に何度も言うように、彼に於ては

『生身の価値』を取り落とすことによってです。

 

 

  精神病では、既に仮想主体性のレベルで(−・−)域に摂理価値が押し潰さ

れています。この仮想主体性を意識的主体性に持ち上げるならば、押し潰され

ている摂理価値は、言葉のとうり真に迫って押し潰されることになるのです。

 言い換えれば、彼は摂理価値からの信頼を切って捨てることになるのです。

 

 

  ”愛されない”と知ることは摂理価値を基準にして判断され、それ以外では

あり得ません。”愛”は摂理価値を言い表す語として用いています。恐怖病で

は”感謝されない”ということになります。

 四病型はそれぞれ、“感謝されない”“愛されない”“労られない”“慈し

まれない”アイデンティティにあります。“労られない”のは集団の本能によ

る『善』の領野の『不安病』、“慈しまれない”のは休息の本能による『美』

の領野の『混沌病』です。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-8.htm

                     〈精神主体性の存在度〉

 

 

 

 

 

 

 

 

                                         症状症型

 

 

  次号から、主体性が崩壊して発病した精神病の症状を、症状症型に基づいて

述べていきますが、精神病の症状は崩壊主体の症状であり、崩壊主体は”崩壊

帯磁主体性”の”二概念一情官態”の価値観で決定された世界を生きることに

なります。これを「自生世界」といいますが、この自生世界の価値体系を、主

体性の内省の力学として、以下、理解しておくことが必要です。

 下を参照しながら読み進めていってください。

 

⇒{参考資料1}〈主体の本能所有=その主体意志組み込み経路〉

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-7.htm

                     〈通常崩壊〉

 

 

  下の表のカッコ内は既存の症型で、右の「自生世界の了解」は精神病症状を

形成している崩壊主体の価値観となるものです。

 

 

                  〈各症状症型の自生世界の価値観〉

 

   ┌──────┬──────────────┐            

    │症状症型  │自生世界の了解             │            

    ├──────┼──────────────┤            

    │本能統覚型 │自由、自由の無、根本情態性 │            

    │(単純型) │              │            

    ├──────┼──────────────┤            

    │理性型   │自由―自由の無       │            

    │(破瓜型) │              │            

    ├──────┼──────────────┤            

    │主体統覚型 │自由の無―根本情態性    │            

    │(緊張型) │              │            

    ├──────┼──────────────┤            

    │主観型   │自由―根本情態性      │            

   │(妄想型) │              │            

    └──────┴──────────────┘            

 

 

 主体の意志発動様式に於て、『本能統覚型』はまた「内観型」と呼ばれます。

この症状症型の既存名は「単純型」です。『本能統覚型』、及び「内観型」の

名称は意志発動様式にも使い、また症状症型にも使います。

  自己主体性では「内観型」は本能統覚の身体エネルギーだけを内観するので、

「身体力型」と呼びます。「身体力型」は身体エネルギーそれ自体に”所有、

支配、権力、翻弄”の価値を内観しています。

 

 

 主体意志がそのまゝ行動の力動点である発動様式を行なう『主体統覚型』は

「実践型」で、まず行動があるエネルギッシュな人間です。

  “私”という自由主観の意識を顕にする発動様式を持つのは『主観型』で、

「内省型」とも呼ばれます。主体の行動にまず目的を与える発動様式を持つの

は『理性型』で、「認識型」とも呼ばれます。

 

 

  『本能統覚型』の内観は自由主観の”自由”の内省に始まります。主体性に

於ける自由の内省は、自由が常生命体(本能存在)に於てその根拠を持たない

ことによって、その自由意志量は必然的に”無”に至ることになります。この

主体の意志の空白状態に於て、内なる本能の”根本情態性”が浮上します。

 

 

  ”自由、自由の無、根本情態性”が、主体存在である私達の行動に必要な

「存在観」を内省する作業に要する「二概念一情官態」です。

  仮想主体性は摂理主体性であるが、『本能統覚型』はその摂理主体性の更な

る「摂理主体型」といえます。『本能統覚型』では主体性崩壊時の内省に関す

る二概念一情官態が欠けることなく帯磁しますが、他の症型では上の表のよう

にそれぞれの主要なものだけを強く帯磁することになります。

 

 

 たとえば『理性型』では根本情態性が欠いていますが、世界観を構築するた

めの認識力に根本情態性の情官の必要性は余りありません。”自由―自由の無”

の意味するものは”所有か、しからずんば無”かということを表わしています。

「崩壊帯磁主体性」はあくまでも”二概念一情官態”を帯磁していますが、

『理性型』の関心は”自由”と自由の無”にあるのです。

 

 

  別の面から照明を当てれば、崩壊主体は、伏在主体の賦活によって、常意識

と同じ意志発動様式を持ち、この意志発動様式が症状症型を形成し、彼の自生

世界観を規定することになるのです。

 

 

  主観は主体の要となる「自己意識」です。存在の全体は「存在意識」です。

主観は自己の存在全体に達するために内省を行ないます。存在全体ということ

は、生存のための行動を行なうことです。主観はこのために、”自由”の意識

をまず発動して、その始まりと終わりの時空を尋ねる作業にはいります。

 

 

 自由自体は永遠無限ですが、身体は生誕と死を持つ有限性です。”自由”は

自らが”無”に至ることがあることを悟ります。しかし、他ならぬこの”無”

こそが、存在に生きる目的を与えてくれるのです。もし”自由”が永遠無限の

自由のままであるならば、そこにはただ茫漠とした時間空間の打ち広がりがあ

るだけで、自己を対照するもののない世界がぽつんとあるだけのものとなるで

しょう。

 

 

 主観は存在の有限性を与えてくれる本能身体のお陰で、自(おのずか)ら生

きる価値目的を知るのです。但し、自己主体性となるならば、この価値目的は

摂理価値を剥奪されて”所有、支配、権力、翻弄”に関するものとなります。

 ”自由”は自らが”無”となることを知ることによってアイデンティティを

得ることができます。”自由の無”は現実の身体の”無”となったシミュレー

ションから得た概念です。

 

 

 ”自由の無”は身体のエネルギーの無を表わすので、主体に於ては、これは

主体意志を示しています。内省はこのとき、身体の内部に降りていく内観に代

わっています。本能を内観するとき、最初に出会うのは根本情態性です。これ

は主体が本能を所有していることに対する本能の反応であることは基礎編で述

べました。

 本能は主体が完全に主体性を捨て去ったときにはじめて、晴々とその本来の

調和に満ちた顔を顕にするのです。

 

 

 内省に於て、『主観型』も『主体統覚型』も”根本情態性”を必要とし、更

に前者は”自由”を、後者は”自由の無”を必要とします。

  こうして、各症状症型は上の表のように、自生世界の価値観を持つことにな

ります。

 

 

 

          以下略(目次のみ)

 

 

           自生世界  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                 本能統覚型  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                 理性型  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                 主体統覚型  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                 主観型  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

           荒廃状態  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

           病態全般  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

      自由状況能力(妄想と幻覚及び自由状況の構造)  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

 

  治療編

          成人精神病の治療  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

 

 

 

 

    了

 

 

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