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W 自由拡張症候群

 

   病理編

 

 

                                        資本主義

 

 

  私達自由圏の資本主義は、自由主義と民主主義の結合したものです。「自由」

は”所有、支配、権力、翻弄”を意味し、「民主」はそれら自由の諸力を一握

りの人間に認めるのではなく、すべての人間に認めることを意味します。

 最後の治療編では自由圏以外の体制をも、資本主義の範疇に入れて論じます。

 

 

 次項で触れるように「資本はモノと等価である」ので、独裁者が民衆を圧す

るために必要な武力というモノを備えるためには、資本、あるいは資本と同じ

働きを持つ余剰物資や貴金属などの権益を確保することが必要です。

   

 

 

 武力はだから資本と同義です。武力があれば、領土を拡張し、そこに住む人

間を余剰利潤を生み出す労働力として確保し、産出する資源を換金または換物

できます。戦争を仕掛けるのはこの野望が働くからです。

 

 

 私達は政権や人権などと普段から言い慣わしていますが、これらの「権利」

はすべて冒頭に述べた二つの意義を含んでいます。人権には親権とか借地権と

か財産権とか著作権とか生存権とか環境権とか様々なものを含んでいます。要

するに、その社会で生起している物事のすべてに亘って、権利の攻めぎ合いが

あるわけで、命の暴力的権利奪取に対しては刑法が主に、命の間接的権利奪取

に対しては民法が主に守備して、権利の平等、つまり、自由の民主を機能させ

ています。

 

 

      ∴間接的権利奪取:例えば、親権を剥奪されれば、親は家族の本能に

    ダメージを受けて、”愛を喪い”心身症に罹患して命を縮める

    でしょう。子供を虐待している場合や、子供が親権を拒絶して

    いる場合は剥奪が適当でしょうが。

 

 

 環境保護や環境保全という言葉がありますが、これは生存権や環境権を人類

以外の種に認めたものではありません。温暖化を防止する為に、また医療など

のために有益な生物種を確保するということが主な理由だといえます。これも

人間の生存権と財産権に収斂していく言葉でしょう。

 

 

 一部の人は、多様な森羅万象とともに生きる「自然主義」あるいは「万象主

義」を以って自然保護を主張していますが、これらの人々も、この資本主義的

生活の基本部分を無批判に肯定しているならば、その言は虚しいものです。

 

 

 自然主義は自然の中に入って、自然とともに生きることがその本来性です。

権利で言うならば、すべての生物は対等の権利を有するというところに立脚し

たものです。この本来の自然主義は、言葉を持たない動物や植物の心を了解す

るところに、はじめて可能なもので、自然界の不文律が読める人々のみ標榜で

きるものです。

 

 

 その不文律には「権利」や「自由」の語はありません。生きることは、万象

を母体として、この母体環境の調和恒存を維持しなければならないのは自明の

理なのです。食べるものが汚染されれば生きてはいけません。空気が汚染され

てどうして呼吸ができるでしょう。

 

 

 

 本能には、生は環界全体の調和があってこそ可能であると、文字なき言葉で

書かれています。もっと言うなら、環界が主で、個々の生物は従なのです。そ

れが本能の意味であり、生物に義務付けられている老弱とそれに続く《死》の

意義はこゝにあるのです。即ち、《環界に還る》という意義です。

 

 

 

 私達は生きている間中、環界を体の中に取り込んで意識を保っています。そ

れを理解できないというなら、呼吸を止め、食べることを止めれば鮮明に事を

把握できるでしょう。

  「食い止める」という言葉をつくった人は、そのことをよく理解していた人

です。存在が生きることは、環界が自らの調和を意識することに他なりません。

 

 

 本能を超脱する人間だけが、環界からモノを収奪しようとしています。この

人間が「自由」と「平等」という神に願って得た申し子が「資本主義」です。

「平等」は互いにその自由を阻害し合わないという申し合わせ、契約、律法で

す。自由が平等によって規制されると、うまく立ち回る自由が不器用な自由を

凌駕するでしょう。「平等」という律法は「不平等」を隠すためにあると言え

るのです。

 

 

 それ故、”自由と平等が帰結する不平等”に対になるものとして、ここに

「博愛(ヒューマニズム)」を標榜することになります。博愛は自由主義、あ

るいは社会主義に着せられるきらびやかな衣に過ぎません。これらモノに基礎

を置く資本主義はどのような衣を着ようとも中身は同じものです。

 つまるところ、資本主義という言葉の定義は、モノに基礎を置く人間の間に

生ずる「自由の闘争」を推進することであり、精神に基礎を置く「相互扶助」

の反義であるものに落ち着くのです。

 

 

 人類の歴史は自由の闘争の歴史に他なりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

            自由拡張症候群の存在度(自由力度)

 

 

 基礎編の NO.2 の[意志]の項と、NO.3 の[根本情態性]の項でも少し述

べましたが、存在は意志(感情と官能)と、知覚と感覚によって、常に存在判

断を行なっています。腹が空くことは(−・−)域の判断です。この判断が行

なわれるので、食物摂取の行為が可能となります。

 

 

  しかし、腹が空いてくると、いきなり(−・−)域の根本情態性の心に落ち

込むのではなく、まず”怒りっぽく”なり、次いで””呪わしく”なります。

それでも空腹を我慢していると、根本情態性が生じてくるのです。(+・+)

域から(−・−)域を上下するこの各判断が存在判断で、その判断は「存在度

(主体の場合は主体度ともいう)」を測るものです。

 

 

 存在判断はその主体の理念(価値観)に基づいています。主体によって異に

する価値観(理念)を「価値度」と呼びます。精神主体性の価値度は”感謝、

愛、善、美”ですが、自己主体性の価値度は”所有、支配、権力、翻弄”です。

 自己主体性内部にも、この価値度があり、この場合は「自由力の強度(=力

の差)」と同義です。

 

 

⇒{精神病理学}〈存在度(主体度、個体度)〉から

        〈存在度―生きる意欲の判断〉までの3座標。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-8.htm

              〈精神主体性の存在度〉

 

⇒{精神病理学}〈自由拡張症候群〉    注:〈〉括弧付き検索。

 

 

 資本主義世界は自己主体性の世界です。自己主体性は自由拡張症候群と自由

損傷症候群(通常神経症)を指します。資本主義世界に生存する限りは、例外

なく自己主体性として生きています。

 ”自由”は損傷していては主体的存在として単独に意志決定ができません。

主体性とは自由の完全な状態でなければなりません。この一人立ちできる状態

を第一反抗期年令なら「自立」、第二反抗期年令なら「自律」と言いますが、

自由損傷症候群はこの一人立ちに失敗した姿です。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-5.htm

              〈主体性の様態と疾患〉

 

 

 ともに資本主義世界を形成しているメンバーではありますが、自由損傷症候

群は、一人立ちしてまさに自由を謳歌している自由拡張症候群の”金魚の糞”

のように就き従っている存在です。分かりやすく言えば、他者の直接的間接的

な命令(他発性理念)によってはじめて主体的行動が可能となる主体性です。

 

 

 自由損傷症候群主体のこのような弱々しさは、自由(所有、支配、権力、翻

弄)という目標(自発性理念)を獲得するために通過しなければならない根本

情態性の洗礼に、”おそれ、おののく”故なのです。

 すべての人は大なり小なりこの自由損傷症候群を持っています。人間はその

後天的に取得した自由という無制限性を持つことによって、生きる価値の消滅

の時空、即ち、生の根拠を見失う”無”に相見える運命を背負ってしまってい

るからです。”おそれとおののき”はこの”無”の時空から立ち現れてくるの

です。

 

 

 自由拡張症候群主体はしかし、その主体性を確立(確律)する際の、根本情

態性の”内観”に於て、面と立ち向かうのではなく、「逃走」という卑劣な方

法を採ります。この逃走形態には4つあり、存在の力の強度がある順に「狂気

症候群」「虚偽症候群」「根本情態性遮蔽症候群」「判断停止症候群」と呼ば

れます。各症候群の様態は次号で見ることになります。

 自由損傷症候群は、従って序列としては判断停止症候群の下に就いています。

 

 

⇒{精神病理学}〈自由拡張症候群〉〈虚偽症候群〉〈狂気症候群〉

             〈判断停止症候群〉〈根本情態性遮蔽症候群〉

                           注:〈〉カッコ付き検索

 

 

 この序列は、下のtenp-21 の〈自由拡張症候群の存在度〉の座標のようにな

り、その意味は先に参照した{精神病理学}の3つの参照座標です。つまり、

一個の主体性の主体度を表わすのと同じに表示できます。このことは、一個の

存在に於て、狂気症候群から判断停止症候群までの存在足り得ることを表わす

のです。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-21.htm

            〈自由拡張症候群の存在度〉

 

 

 自由拡張症候群の理想(最満足)は(+・+)域の「狂気症候群」です。

(+・−)域の「虚偽症候群」はここから転落して「怒り」の様態にあり、

(−・+)域の「根本情態性遮蔽症候群」は「呪い」にあります。怒りと呪い

はともに「最満足(所有の調和))」の理想様態からの方向を異にする転落で

すが、意志の自由(満足)を確保している(+・−)域の方が優位にあります。

 

 

 自由拡張症候群の理想というときは、「自由力についての満足」であり、上

に見たのはその自由力の満足度合いの比較を「存在度(主体度)」の座標で述

べたものです。つまり、一個の主体性の中での存在判断として表わしたもので

す。

 

 

 ”高価な車を所有している”ことを自慢し合うのは、モノに対する所有力の

大きさであって、生身の存在自体の力の大きさとは無関係です。”地位や肩書

きや成績などもモノ所有力”を示し、純粋な自由の力の大きさとは無関係です。

自由拡張症候群の4タイプの人間をモノを剥ぎ取って並べた場合が「自由力」

の比較です。つまり、意志それ自体の様態を言います。

 

 

 意志自体の様態を、いま一個の存在の存在判断の中で見ましたが、これを4

つの主体性に独立させて、各主体を座標に立てると、それぞれの主体が価値観

を持って立ち上がります。例えば、判断停止症候群主体の理想は、(+・+)

域の判断停止という自由拡張様態です。この場合には、各主体の自由力の比較

は価値度の比較と言っても同じことになります。

 

 

 tenp-1 の、〈存在の意志発動の強度=自由力強度〉の二つの座標の、右の

座標は一個の存在を表わします。左の座標は「力の強度」を表わします。右の

座標の上に左の座標を重ねると、●で表示された領域に力の最強度域が分布し

ます。(+・+)域にも(−・−)域にも、ともに同じだけの最強度域が配分

させていることが判るでしょう。

 

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-1.htm

       〈”根本情態”域と根本情態性が発動される存在度〉

       〈存在の意志発動の強度=自由力強度〉

   注:それぞれの座標は90度、時計回りに回転させて見てください。

 

 

 (−・−)域の根本情態性にあって、その”不安、絶望、混沌、恐怖”に陥

っていても”窮鼠猫を咬む”、また”火事場の馬鹿力”の喩(たとえ)がある

ように、反撃に打って出る力を出せるのです。

 

 

 例えば、自由拡張症候群の中のひとつの虚偽症候群の主体性の座標として、

その自由力度を測るものとすることができます。この場合は価値度は虚偽価値

にあり、その理想様態は(+・+)域です。しかし、力は4つの領域のそれぞ

れに同じだけ配分されています。

 経緯座標上で動く指数は虚偽価値(狂気症候群なら狂気価値)で、●などの

符号分布で指数される放射度は自由力です。自由力は、体が健康なら(−・−)

域に落ち込んでも(+・+)域に盛り返せる力があることを示します。体が死

に瀕しているなら、自由力は限りなくゼロに判定されます。

 

 

 

 この右の座標に tenp-21 の〈自由拡張症候群の存在度〉を置き、その4領

域は独立した主体であるとするならば、4つのレベルの自由拡張主体の力関係

が表わされます。先には一個の座標の中での存在度として、また独立した4つ

の座標に立った異なる価値度として述べたことを、合体させて示すことができ

ます。

 

 

 各主体は同じ筋力、武力、策略を持ち、両者ともに健康体だとするなら、●

の分布を以って力は互角であるといえるでしょう。しかし、(−・−)域の

「判断停止症候群」は、(+・+)域の「狂気症候群」が持つ自由拡張主体と

しての「所有力の最大の理想」の達成では遥かに劣っています。従って、究極

のところ、その自由力の大きさには”月とすっぽん”で喩えられる位に隔たり

があるのです。

  価値度でも表記されるこの自由力の格差の秘密は、次号以降に明きらかにな

ります。

 

 

 いま、左右一対の〈自由力強度〉座標を、二つの意義、即ち、一個の存在に

於ける4つの存在度(価値の調和度)を表わす座標と、また、自由拡張症候群

の各主体を配分してその存在力の大きさ(力の調和度)の座標として見てきま

した。

 この一対を重ねずに、左の符号分布で示した「自由力強度」の放射度座標の

みを単独で見ることも可能です。

 

 

 その場合には、●域に狂気症候群を、・域を判断停止症候群として見ること

ができます。それぞれ隣接する◎と o のその一部も含んで見てください。虚

偽症候群は◎と○、根本情態性遮蔽症候群は○と o です。これは4つの自由

拡張症候群主体の力の大きさの単純な比較です。

 自由損傷症候群はこの座標上の交点0に位置します。つまり、力はゼロなの

です。

 

 

 一対に戻して、tenp-21 の〈自由拡張症候群の存在度〉として、4つの自由

拡張症候群主体の力関係に於て見るならば、虚偽症候群主体は、(+・+)域

の理想様態に納まっている狂気症候群主体から追い落とされて、転落し、「怒

り」の様態にあります。

 

 

 具体例に喩えれば、狂気症候群主体(ここでは会社の上役とみてよいでしょ

う)に怒鳴りつけられた遣り手の平社員は、狂気の(+・+)域から(+・−)

の「怒り」域に転落します。”もう一度こんな失敗をしでかしたら首にする”

と脅されれば、彼は(−・−)域の判断停止症候群主体にまで転落して意気阻

喪し、得意先回りを放棄して漫画喫茶で暇つぶしする心境に追い込まれるでし

ょう。

 

 

  しかし、彼は抗弁して失敗の理由が彼のミスではなく、契約先の巧妙な偽装

工作があって、いかに遣り手のベテランでもこれを見抜くのは不可能であるこ

とを納得させるために、(−・−)域での最大力を発揮することもできます。

自分の正しさが分かって貰えたとしても、上役の力は自由拡張症候群の理想域

にあるので、上役が彼に頭を下げて謝ることは期待できないでしょう。

 

 

 いま彼はその抗弁の甲斐なく会社を首にされたとしましょう。彼は(−・−)

域に転落しますが、所有の調和度(存在度)を幾分か回復させて「呪い」域、

更には「怒り」域の虚偽症候群主体に持ち直したとしましょう。彼はその会社

のスキャンダルを暴き失速させるためにいろいろ工作するでしょう。更には

(+・+)域の狂気症候群の力にまで復帰を得られれば、ライバル会社に就職

して、その会社が市場を独占する位に大きくなることによって、追われた会社

を抹殺するために全力を尽くすでしょう。

 

 

 いま自由拡張症候群の4タイプがひとつの座標の4領域に配置された tenp

-21 の〈自由拡張症候群の存在度〉で、二者間の争いと格付け、及び一個の主

体の価値度の変遷をみましたが、ひとつの価値度の座標上でも、例えば虚偽症

候群主体は独立した存在度の座標上で、”満足、怒り、呪い、根本情態性”の

感情をも揺れ動いているのです。

 

 

 人間の自由力は”井の中の蛙”、”お山の大将”、”内弁慶”であり得ます。

家庭や会社やその他の組織毎に、力関係を持っています。その組織が独裁とい

う力関係で繋がるものであるならば、独裁者は狂気症候群です。家庭に於ける

父親としての役割が腕力によるものならば、彼は狂気症候群です。同じ彼が会

 

社では中堅どころであるならば、虚偽症候群か根本情態性遮蔽症候群です。上

下関係の中での中堅グループは互いに対等です。つまり、虚偽症候群同士の仲

間です。

  またライバル会社に対しては、所属する会社の構成員はすべて同等の仲間で

す。

 

 

 自由拡張症候群や自由損傷症候群の自己主体性では、「対等」「平等」とい

うのは、力の等級の中での平等です。日本国内では、外国の難民生活者に較べ

て、全国民が中流以上の力の位置で平等でしょう。しかし、国内での歴然とし

た”所得格差”については、”機会均等”の一語以って、人は平等の目眩まし

をされています。

 

 

 国内格差を無くするために、課税などの公共費負担額で調整を行なっていま

すが、それは絶対的なものではありません。それらはそれぞれの税率、負担率

の中での相対的なものに過ぎないものです。

 資本主義の資本は換物のためにあります。資本はモノと等価です。資本の所

有の自由はモノ所有の自由のためにあります。資本を独り占めにすることはモ

ノをも独り占めにすることに同じです。

 

 

 独り占めにする思想こそが、地球環境の破壊と住環境の破壊を行っているの

です。本来の《生命律》は環界を本質とする機能となることでした。それは全

体を配慮することです。自己を全体に還元することです。これが本来の意義を

持った「平等」です。

 

 

 自己主体性が運営する資本主義は、至上の原理に「不平等」の不文律を持っ

ているのです。「不平等」は”モノを独り占めにする”思想であり、その力関

係は自己主体性の存在度(自由力度)を原型の版図とします。もしその組織内

の構成が、虚偽症候群が大勢を占めるようであれば、少数の狂気症候群を抑え

ることが可能でしょう。先進諸国はそれぞれ国内的に見るならば、ほぼこの構

成にあると見てよいでしょう。しかし、国家を超越した「資本の暗躍」がある

ことを見逃すことはできません。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                          虚偽症候群

 

 

 

⇒{精神病理学}〈虚偽症候群〉

 

 

 

 自己主体性のナンバー2の実力を保持する「虚偽症候群」は、ほぼ資本主義

社会の中核群を占めています。この中核が意味するものは、社会体制を資本主

義に決定する力となるものであると同時に、自由の理想の現実妥当的な力を表

わしています。

 

 

 狂気症候群は資本主義の契約(法)社会に於て、対抗者を物理的に抹殺する

力を行使したり、契約不履行や、法の網の目をかい潜っていわゆる”甘い汁を

吸う”ことで、資本主義社会を硬直化して全体の発展を阻害します。社会主義

であったソビエト連邦が解体したのも、また独裁恐怖政治の変形としての社会

主義である北朝鮮やキューバや、既に崩壊したルーマニアの、それら国民の貧

困は当然の帰結なのです。これらの国家は、官僚や元首の独裁、即ち狂気が巣

喰い、喰い物にしていた、あるいはしている”甘い汁”として存在するもので

あったし、あるからです。

 

 

 「現実妥当的な力」は社会の構成員同士の競争を行ない、従って、その結果

として競争相手の立場を奪うことはありますが、基本的には自らの生存のため

に社会全体の発展を心掛けています。それは緩い狂気症候群国家の”生かさず

 

殺さず”の運営方針よりもずっと全体の繁栄と健康を望んでいます。全体の活

性化の中に自分の繁栄があるからです。

 ”あんたも儲ける、わしはもっと儲ける”ことが、虚偽症候群主体の描く社

会の理想でしょう。「自由」と「民主」の積極的な推進者が虚偽症候群主体で

す。

 

 

 この積極性は、自由の内省に於て根本情態性に相見えたときに、根本情態性

の素顔をはっきりと見て取ったことから生じています。自由は無制限性の充満

ですが、それは物理的身体の根を持たないアドバルーンのようなものです。強

風が吹けば一溜まりもなく飛んでいってしまうでしょう。飛んでいって行方不

明にならないためには、自由を小さくすれば済むことですが、もう既に根本情

態性の素顔をはっきりと見てしまいました。もはや見ずに置いてもその形相が

記憶にこびり付いてしまっています。

 

 

 根本情態性からは逃げおおせることができないと悟った虚偽症候群主体は、

自由を拡張して根本情態性を遥か見えない辺境の記憶に追い遣ろうとします。

その戦略は自分が持てる自由を拡張するとともに、自分の存在の周囲をも自由

の軍勢で占有してしまうことです。[自由損傷症候群]の講座でこの「感染」

の力学を述べましたが、それと同じことを、彼も行ないます。tenp-32 の〈自

己主体性としての自由損傷症候群〉を中心に参照してください。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-32.htm

                      〈自己主体性としての自由損傷症候群〉

                      〈自由損傷症候群の家族因〉

 

 

  天地の間をアドバルーンで埋め尽くしてしまえば、根無しだろうが、強風が

吹こうが彼のアドバルーンは近隣縁者で守られ、おまけに根本情態性が侵入し

て来る隙間もなく、根本情態性は遥か彼方の”われ関知せず”の辺境の住人で

しかなくなったのです。自由が本質的に根無し草であるので、存在の時空(=

生きる意義、価値)は行為のそのつど尋ねなければなりません。従って、その

内省の作業に於ては必ず根本情態性を「感知」することになりますが、しかし、

関係しないという意味で「関知」しないのです。

 

 

 これは策謀を巡らした根本情態性からの「逃走」です。この逃走の形態は巧

妙に隠されていますが、アフリカのステップやモンゴルの草原に一人置かれた

ときに露となるでしょう。家族旅行で他の旅行者とのグループでの周遊コース

を楽しんでいたUSAのご婦人が、ステップにまで足を伸ばした途端、広場恐

怖の発作に見舞われた話がありますが、これは単に自由損傷症候群の疾患では

なく、自由拡張症候群の疾患である「逃走」をも含むものです。

 そのご婦人はUSAに帰りたいと、泣き叫ぶような恐慌振りだったのです。

普段、果てしない距離にあった根本情態性が、疎林では遮(さえぎ)切れずに

近くにまでやってきたのでしょう。コンクリートのビルでなければ遮ることが

できないのでしょう。

 

 

 私の住む山では、根本情態性の嘆きの声をなんとか聴かずにしたいと音を好

のむ傾向が顕著です、私も重い荷揚げには姦しい音を発する動力を使いますが、

種々の動力があるうち、とくに草刈り機のあの地獄の音が心地良い響きらしい

様子である風に見えます。

 あるいはまた、私は既に下のWebの所在をこの地の役場に教えていますが、

何処吹く風の風情で、いまなお凄い状況が続いています。私はもはやUSA風

に、肩を竦めて両手を少し開き、サイレントに頭をゆっくり左右に振るのみで

す。

  最近はまた、斜め向かいの山に暴走族の通勤者が現れたようで、そこら中に

地獄の音を響かせています。

 

 

⇒{http://www2.dokidoki.ne.jp/planetx/resident.htm

         〈MIKAMOには三大公害がある。〉

 

      ∴スピーカー放送もチャイムと同じで、1日3回流します。同じ内容を

      2度繰り返しの、1日3回で、これを1週間続けます。ときには数

      分インターバルを置いて番組?が3つもあることがあります。これ

      は「ちょっと狂気の沙汰」で、この感覚は私には理解できないもの

      です。専属の女性には大変申し訳ないのですが。

      いままでに2〜3回、セクシーで落ち着いた若い女性とゆったりと

      優しい中年女性の声が流れたことがありましたが、不思議ですね、

      もっと聴きたいと思いました。これも程度の問題ですが。

 

 

 ”自由への逃走”と言った人が居ます。また”日常性への転落”と言った人

も居ます。資本主義的自由の真の病因は”根本情態性からの逃走”なのです。

資本主義的生産主義は「勤労(労働感謝)の日」に結実していますが、実態は

無様(ぶざま)な逃げ足の速さを競う日に過ぎません。

 ”人間って何かをやらずにはおられんのやね”と言った人が居ましたが、老

子の”無為にして自然”主義の生活態度はこの対極にあって、根本情態性から

逃げ隠れしない決意を表明したものです。

 

    ∴無為:為は人為の意味で、その心は「徒に事を為さず」。

 

 

 虚偽症候群主体は積極的、遣り手、活動的という評価が下されることを好み

ます。給与が年俸契約性や評価性に移行しつつあるのも虚偽症候群の望むとこ

ろからでしょう。この虚偽主体同士の社内競争に身も心も入れあげて、家庭で

の自らの父親として、また夫としての役割を忘れて離婚に至るケースは、[小

児神経症]で言及した「自由拡張性自由損傷症候群」が主役に躍り出る前の離

婚のトップを占めていました。夫がこの虚偽症候群で妻が自由拡張性自由損傷

症候群でのケースももちろんあります。

 

 

 こうしたタイプの虚偽症候群主体は「日曜神経症」と言われる休日の家庭で

のごろ寝の挙げ句、離婚に至ります。家族に対しては「わしが飯を食わせてや

っているんだ」という、恋人時代とはまるで様変わりしたその態度に、妻は堪

忍袋の緒を切らしてしまうようですが、彼女は彼女で自由拡張性自由損傷症候

群へとやはり様変わりしてきたのです。

 

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-37.htm

                      〈自由拡張性自由損傷症候群〉

 

 

 こうして社内でトップを競っている間は、日曜神経症という〈道徳倒錯〉で

休日は潰れてしまいます。虚偽症候群主体のすべてが、彼のようにその主体度

を(+・+)域の理想に置いて満足しているわけではありません。不満だらけ

でしょう。その不満は発散させねばなりません。

 

 

⇒{精神病理学}〈道徳倒錯〉

 

     ∴日曜神経症:虚偽症候群主体個人としての社内競争は、「会社」への

      ”隷属や献身や殉ずる”ことに帰着します。上の参照表には、

      「隷属や献身や殉ずる」ことは家族の領野にありますが、会社が

      家族となってしまっているのです。従って、本来の家庭では行動

      の指針を喪って、木偶の坊となることがその偽らざる姿です。彼

      の中では既に、家族像は崩壊しているのです。

 

 

 〈虚偽症候群〉の座標の(+・−)域と(−・+)域の、怒りと呪いの解消

行動はその発散なのです。怒りの解消の各項目は、自然や芸術に関しています。

スポーツや登山や工作や踊りや唄(カラオケ)など肉体を動かすことにも肉体

という自然が含まれています。写真や料理や生け花や盆栽などは自然を相手に

します。これに手芸、工作、絵画、お茶を含めて芸術に関するものであるとい

えるでしょう。

 

⇒{精神病理学}〈虚偽症候群〉      注:既出

 

 

 しかし、これら自由拡張症候群(自由損傷症候群も含む)が行なう肉体を含

む自然との交流や芸術は、本来の自然体感や芸術ではありません。肉体を以っ

て行なう踊りや唄やスポーツは、それぞれのレベルでの肉体を使う巧みさを競

うことに目的があります。従って、その先にはプロ、アマを問わず最高レベル

が想定されるわけで、そうなると(+・+)域に範疇されるものとなります。

 

 

 また自由拡張症候群が行なう芸術は真似事に過ぎないもので、その基本的態

度は「鑑賞」で、モノの表面をたゆたうものに過ぎません。真の芸術は精神主

体性が創り、そして「観照」するものです。生け花でもお茶でも絵画や彫刻で

も結社(流派)に所属すると(+・+)域を目指すことになります。

 

 

 肉体を動かすことは、自己身体の所有、支配の絆を強めることも目的でしょ

う。得られた身体力は「怒り」を力強く表わすでしょう。実際に見聞されたこ

とですが、ゲームセンターにあるサンドボクシングのマシーンで、男が「部長

くたばれ!」などと叫びながら、打ちまくっていたそうです。

 

 

 スポーツ観戦や、演劇や踊りや絵画、また音楽鑑賞に出掛けたり、家で映像

鑑賞する場合は、(−・+)域に入ります。そこではギャンブル一般が展開さ

れていますが、エンターテインメントである限りは、一座の余興、瞬間的熱中

と同じで、真の芸術性が剥奪されて、ギャンブルやショッピングと同レベルの

ものとなります。一般にある程度の精神性に到達しないものは真の芸術とは言

えません。

 

 

 それは単なる音響やリズムの妙、題材や表現の斬新さ、言葉の綾や振り付け

の面白味などの楽しみでしかありません。スポーツ観戦では露骨に勝敗にのめ

り込み一座の熱狂を味わい、スター選手の活躍に自身をダブらせたりするので

す。

 

 

 あるいは、その試合運び、各選手の技巧や能力を評論するなら(+・+)域

の「気紛れ評論」を満足させるものです。気紛れ評論とは、存在についてのも

のであっても真摯ではないもの、及びまた、正鵠を射たものであっても、虚偽

症候群主体が好んで関与するものについての一切を言います。

 

 

 

   ∴スポーツ観戦での応援の熱狂はまたギャンブル性を持っています。そ

     の帰結としてのサッカー籤の法制化はどうなったのかは知りません

     が、壱岐(いきの島)でも先般、町の職員が町のスポーツ大会でト

     トカルチョを行なって、摘発と処分を受けたそうです。

 

 

 

 真の芸術は存在の自然性を観照するものです。「観照」とは観てそれを”照

らす”のであり、はじめには、存在を含む森羅万象の自然を深く見つめること

がなければなりません。それが抽象芸術であっても同じです。制作はそのよう

になされ、出来上がった作品を観る者も、やはりこれを観照するのです。つま

り、《自然の摂理》を互いに共有するために芸術という手段が使われます。

 

 

 

 私は能を映像でしか観たことはありませんが、世阿弥の”老い木に花””巌

に花”という言葉はこの辺りのことを言っているのです。「幽玄」という言葉

の「玄」は玄米の玄で、「もと」「天」「黒」「静」の意義を持ち、糸のよう

に見えがたいもの、つまり、”ものの始まり”を示し、幽玄の「幽」はその捉

えるのに幽かなことを言っています。従って、幽玄なるものは掴まえることが

できるようなモノではなく、”照らす”ことでのみそれを観ることができるの

です。

 

 

 

 能を一面の草原か森の中の屋根のない低い舞台で、晴天の昼間に観たいと思

います。能のあの足の運びは沖縄の竹富島古来の舞踊にもあり、こちらは地元

の祭りでお婆さんが踊るのを観ました。あの爪先を遅れて地面に着ける足運び

は、地面を踏みしめることを強調しているのだと思います。能の見所はあの爪

先がぴたと地面に着くことにある、と私は観ます。地面から湧き出すような謡

にも幾分かは感じるものがありますが、私は足裏が地面にぴたと吸い付いた、

その瞬間の芸としてより以上のものを感じることがありません。

 

 

 

 あれは芭蕉が俳句で目指したと同じ”自然”へと自己を合体する瞬間芸で、

摂理を照らし出した瞬間の”存在の佇まい”を観せているのです。老い木や巌

(いわお=岩)に花が咲くというヴィジョンは存在が自然を会得したこと、即

ち、本能を内観して照らし出した比喩なのです。能という芸を鑑賞していては、

このヴィジョンは観えては来ないでしょう。能を通して自然を観照することが

必要なのです。

 

 

 

 ギャンブルに所得生活が掛かっている場合もあるでしょう。宝くじやクイズ

もそうである場合もあります。

 流行のテレビゲームは囲碁、将棋に連なります。これらゲームもプロ、アマ

のハイレベルでは(+・+)域に移行します。

 

 

 自然探索のハイキング、ピクニック、サイクリングなどは「呪い」域の旅行

に範疇されますが、それらが真に上に述べた意味で自然に触れるものならば、

精神主体性、または無意識的摂理主体性での行為です。

 

 

 (+・+)域の「小悪の驕り」は、(−・−)域の「小悪の惧れ」とともに、

私達の社会のマスコミがその第1面や2面で報じているものです。1面2面に

生涯載ることのない私達一般庶民は、もっと低いレベル、小さな領域で同じこ

とをやっています。

  株式覧は3面あたりにあったでしょうか。これは一般庶民の低額の「投機」

として、気紛れ、あるいは遊戯的な「翻弄」の領野に入れています。

 

 

 

  こうして資本主義社会の日常を生きている私達は、この日常が「小悪」の心

によるものであることを頭の片隅にも映じてはいないかのようです。もし映じ

ていれば、認知症の結末に至ることもなく、罹患の影に怯えることもなかった

でしょうし、何よりも戦争や犯罪や、経済戦争の結果としての環境破壊はなか

ったでしょう。

 また内外の意味に於ける自己主体性の影響による種々の精神疾患をつくり出

すこともなく、その治療のための無駄な経済的損失もなく、またこの連続講座

を開設する必要もなかったでしょう。

 

 

 虚偽症候群の重い病態がもたらす深刻な結末である、脳萎縮性認知症の「パ

ーキンソン病」と「進行性核上性麻痺」については、項を改めて論じます。

 

 

 

 

 

          以下略(目次のみ)

 

 

           狂気症候群  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

          根本情態性遮蔽症候群  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

      判断停止症候群  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

           脳萎縮性認知症  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                 〔認知症全般〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

          〔関与遺伝子〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

          〔病因と発症機序〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

          〔認知症の症状〕  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

 

     治療編

 

         自由拡張症候群の治療  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                 自殺  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                   理想社会のヴィジョン  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                    精神主体性の観想  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

                   精神主体性の自由へ  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

           社会変革へ  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

           認知症の治療  ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐1

 

 

 

 

    了

 

 

 

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