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     人類精神病理学

 

 

  【第一部・一般原理】  

 

 

    一般原理編は存在の基礎的な心理構造と心理機制の、概括的理解を促す為に書かれた。

    『主体性』のより詳しい動的心理機制は第二部・個別原理編の各章で、必要なそのつど述べてある。

 

 

 

 

    [生命]                          

 

          無           *無とは真空であり、真空は我々

          ↓            に知られないある物質である。

         無機物質                        

          ↓                          

          有機物質         *生命物質(核酸、アミノ酸など) 

          ↓                          

    生命物質+遺伝子機能 → 細胞存在  *単細胞生物、植物       

          ↓                           

    細胞存在+脳本能機能 → 個体存在  *昆虫、動物         

          ↓                           

    個体存在+脳主体機能 → 主体存在  *人間                

 

 生命であることは存在することの了解と認識が必要であり、了解と認識はそれ

ぞれの時間空間を、了解し、認識することである。

 こうした了解と認識を行なう作業を、細胞存在では細胞的自己、個体存在では

個体的自己、主体存在では主体的自己が、それぞれ受け持つ。【第二部・個別原理】

の「Y 原子、生物有機分子、細胞存在」で明らかにするが、右図で無から生命物

質に至る各存在もまた、自己構造を有している。もしわれわれの体を構成している

原子が、自己をもって己の存在を体の裡に組織的に留め置こうと意欲しないならば、

あなたはたちどころに空中分解するであろう。    

 存在が自個(自己)という自覚、環境世界から自らを分ける自分という自覚を

持たないなら、生命として機能しない。従って、われわれが無機的物質として、

単に生命を構成する材料に過ぎないとしている原子など、すべての物質性存在も

また、自己機能を裡に持つ生命存在である。

 自己の機能は弁証法機構によってのみ維持される。弁証法機構とはあるものと

あるものとの対話の形態であり、このような相対性構造によって、自己という存

在が了解され認識される。    

 

 

 

 

                                    

    [生命の弁証法的調和]                     

    

 生命の弁証法は、自ら体現しているものと、それと対となって体現を生命的に

維持していくものとの対話である。                    

 無機物質はこれに光とか熱とかの対を得て、有機物質を形成する。

たとえば[炭酸+アンモニア+硫化水素+光熱 → 各種のアミノ酸構成物]とい

う単純化して見た化学反応式は、裡に重合する弁証法を抱かえている。[炭酸+

アンモニア]はひとつの弁証法を構成する。[[炭酸+アンモニア]+光熱]はまた

ひとつの弁証法を構成する。

 

これは宇宙の体(胎)内に於ける原子による代謝活動と理解し得る。

弁証法には調和的なものと所有的なものとがあり、ここでは生命的自己機能をも

つ存在の調和の弁証法のみに言及する。生命の定義は、自己存在の恒常性を図る

ために環界に調和的に働きかける存在である。しかし、この定義は本末転倒を行

なっている。生命の真理は、宇宙が自存するために、その胎、つまり真空を合成

    発展・分化させて、弁証法的な調和システムを胎蔵するところにある。そうす

ると、個々の存在は宇宙の為に、また他者の為に働くこととなる。

  これを一個の存在に類推するなら、有機(生命)物質は遺伝子機能の対によっ

て細胞存在に成る弁証法を展開する。

 調和の弁証法に於ては、最初に自ら体現して存るものを、自体といゝ、これと

対となるものを、対自体という。自体は、その存在の全量の質量を担い、対自体

はその質量に支えられられたひとつの機能である。右の化学反応式に戻れば、最

初に措定された炭酸が、これに加えられ反応していくアンモニア+硫化水素+光

熱の質量やエネルギーの全部を、その自体に質量化する。最終的な合成物である

アミノ酸こそ、炭酸がアンモニア+硫化水素+光熱を全部加えた合計質量である。

この弁証式では、アンモニア+硫化水素+光熱は質量無き機能に徹するのである。

宇宙は内部機能的に合成・発展・分化するが、その総量は変化しない。                        

 人と人との対話(弁証法)に於て、はじめに喋った人の内容が自体であり、こ

れを受けて話す人の内容が対自体である。この場合も、最初に喋った人の内容と、

これにプラスして対話者(受け手)の内容が、自体の全質量となる。この質量の

中で、この質量を死に体とならないように生かしていく仕事が、受け手の対自体

としての機能である。対自体は自体が調和的に生々流転する為の機能の役目を果

たす。        

 自体と対自体のそれぞれの話の内容は綜合されて、あるひとつの調和的結論、

即ち、死に体とならずに発展的内容を備えたとき、これを弁証法的調和という。

弁証法的調和に至る過程では、自体と対自体のそれぞれの役割は順次交換され

る。為には、対話が継続的であれば生命もこのような対等的な弁証法的調和で

ある。もし弁証法(対話)が決裂すれば、生命はそこで価値的死を迎える。価

値的な死が現出するのは、主体性を前面に押し出して生きる人間の場合だけで

ある。相手を配慮する調和という価値を見喪った存在の生き様は、所有の弁証

法である。                          

弁証法は生命現象、延いては宇宙を了解するための要である。項を改めて

[弁証法機構]と、[本能存在を超え出た存在である主体存在、その所有の

弁証法]で再論する。 

 

 

 

 

 

    [物質の存在理由・生命の存在理由]               

    

 宇宙の胎内で合成されて来た、われわれの体を構成する細胞以下の物質もまた、

自己機能を有する生命である。しかし、人間の個体としての意識以下の意識の覚

知は、われわれにはない。つまりわれわれは、自身の身体を構成する細胞以下の

微細レベルの段階的構成物体から意識的覚知の信号を受けない。

 しかし、単細胞生物を見る限りでは、細胞単体は生命現象の最小単位であるよ

うに見える。

生命と物質の閾を細胞と分子の間に置くならば、分子以下は物質のカテゴリー

に留め置かれることになる。物質の概念は生命を客体化することで生じる。客体

化は人間だけが主張する特異な“主体性”の意識が生み出す。これは所有の意識

の始まりであり、科学的認識の始まりである。科学の究極は物質の存在理由を問

い質す。

 しかし、物質が何故存在しているか、ということは終にわれわれには分からな

い。不可知だということが、偶然性に導く。物質はわれわれにとって偶然である。

生命もまた、物質から形成されている故に、物質としてみるならば偶然の存在で

ある。この偶然には生の本然性、その全き“然り”が捨象されている。

 『生命から見て偶然の世界である物質世界は、生命に対してなんら調和的義務

を有しない。物質世界には生命世界のような調和の弁証法機構はなく、それ故、

自体も対自体もなく、生命から観て単に即自体としてのみ存する。    

 物質自体は単に環境の変異を成すだけである。物理的な環境の変異に対しては、

生命は自らを変異することによって、損ねられた調和を取り戻すことがある。

これが生物進化の一つのあらわれとなる。物質もまた弁証法を行なうが、しかし、

あくまでも調和の意識によるものではない。』主体性を立てる人間は、その生存環

境をこのように客体化認識する。

 しかし、ひとたび主体・客体の差別化を捨て、自存する自己の身体、その生命の

内に入ってみるならば、そこに必然性がみえてくる。我が子が愛おしい、母親が慕

わしい、食べものがおいしい、木陰が涼しい───等々。ここに、生きるというこ

との環界との調和の喜びがある。

 

 

 

 

 

        [生きることの環界との調和の喜び] 

 

 生存の調和の喜びを本能という。本能は生の価値であり、同時にこの価値を遂

行する機関である意志のことを言い、価値は、遺伝子機能や脳機能が、それぞれ

の自体としての質量に対自する、その弁証法機構の中に現出する。

 生の価値は全部で四つしかない。種の維持の為の価値が二つ。個の維持の為の

価値が二つ。生命は環境世界に在って、個体として身体を維持していくことに、

種として仲間と共に在ることを維持していくことに、喜びを知る。本能存在では、

そのような最低限度に於ける調和維持のこころみが、生きる目的、生きる価値で

ある。価値は個体の内的機能である意志が発動する。個体維持の為の要素である、

光や熱、大地、水、食物となる他生命などと、種の維持の為の要素である仲間は、

自己の外、環界に属していて、彼はその環界に対して調和の弁証法機構を構成す

る。  

 

 

⇒“治療の為の存在分析”(プリント)           

        P5

 

   縦書きにする。  

 

                                                                      

                                       ┌──共存本能                 

            ┌──種の本能 │                            

            │       └──生殖本能           

      遺伝子本能 │                         

            │                         

            │       ┌──休息本能           

            └──個の本能 │                             

                    └──栄養本能           

                                      

                                      

                    ┌──集団の本能          

            ┌──種の本能 │                  

            │       └──家族の本能          

      脳本能   │                         

            │                         

            │       ┌──休息の本能          

            └──個の本能 │                             

                    └──食の本能           

 

 

 

 

  [本能、または価値とは、生命が自ら存在することを了解する方法である]   

 

 存在することは存在しないことを前提にしている。本能存在は、その存在に限

りがあることを自覚している。生命は永遠、無限なるものではなく、限られてい

る。生命は空間的に無限に生きるのではない。また時間的に永遠に生きるのでは

ない。           

 生命は環界に在って、時間的、空間的に限りあるものならば、一個の生命に時

間の始まりがあり、時間の終わりがくる。また空間の始まりがあり、空間の終わ

りがくる。

 存在することは、自己の存在が無い時空を前提しており、この自己存在のない

時空の中に存在を始めることの意義と、存在を終えることの意義を、瞬間毎に確

認していく作業である。これを存在の了解という。了解されたものが価値と呼ば

れ、了解しているものが本能(本能意志)と呼ばれる。例えば、食べることは時

間的に存在が終焉することを、そこで食い止めることである。食の本能は、時間

の終わりに向かって、自己存在の存在意義を確認する作業を行なう。     

 自己に与えられた有限な時空を了解するという作業は、その時空、即ち、与え

られている環境世界に自己存在を調和させていくという条件の中でなされる。環

界に調和する絶対条件を受け入れ、これを満たすことが同時に、存在する意義を

満たすものであることが、本能存在の本能たるものである。     

 

 集団の本能は、自己存在の空間の始まりに於ける生存の意義である。    

 家族の本能は、自己存在の空間の終わりに於ける生存の意義である。

 休息の本能は、自己存在の時間の始まりに於ける生存の意義である。    

 食の本能は、自己存在の時間の終わりに於ける生存の意義である。     

 

 

 

 

 

    [弁証法機構]   ――調和の弁証法=生命(本能)の弁証法――                      

                                    

   A + B →  A・B                               

  (自体)(対自体)(綜合)          

        

 弁証法機構は対話的世界を形成する為の方法である。対話的世界には、主人公

は存在しない。立場というものがあるだけである。    

         

  (細胞存在+脳機能 → 個体存在)

  (環境世界+私 → 生態的な調和世界)

  (あなた+私 → 配慮ある気心の知れる世界)

 

 Bは機能であり、質量を有さない。BはAを配慮する立場にある。BはAを配

慮する機能であり、Aを客体とする主体でないばかりか、Bの質量はAに負って

いる。                                 

 人と人との対話に於ては、受け手(機能)としての立場は相互に入れ替わりう

る。Bの立場に立つ人は、常に機能であり、Aを配慮しなければならない。この

ような対話の相互性が他の無数の存在に敷衍されていくと、それが遂には環界全

体との弁証法的対話となる。一つの綜合は最終的なものではなく、順次高位の綜

合へと綜合されていくのである。Aに対する配慮はそのような、より高次の綜合

を勘案して為されなければならない。                   

 Bの配慮はAの本質に於て為されなければならないが、その本質とは右のよう

なものでなければならない。従って、もしAが人の本質を踏みはずしているなら、

これを正す方向に矯めていかねばならない。

 また、もしBが機能としての自分の立場をわきまえないならば、それはB自身

にも質量が存していることを主張していることであり、質量Aと質量Bの対話に

は調和は存しないことになる。それは世界と反世界の衝突となる。  

 存在が恒常的に存在し続ける為には、質量と機能の、この二つの要素が調和的

に対話し続けることが、必要不可欠である。            

 食べるという行為は、対象Aの質量を食べるという機能Bが対自することであ

る。食べる者Bは、食べられる者Aに対する主人公ではなく、Aという質量の立

場があり、Bという機能によって栄養作用に、つまりエネルギー代謝に綜合止揚

されるということである。存在は最初ゼロであり、存在は環境世界から生み出さ

れるのである。食べる者Bの身体はそうして環界から取り入れた蓄積であり、存

在の弁証法に於てその身体は自体の側、つまり食べられる者Aに帰入される。B

にとってAは多くのA、つまり『' A』、『" A』───である。      

 BはAに対する主人ではなく、Aは質量を担い、Bは機能を担うという、とも

にひとつの立場であり、この二つの立場の綜合も、また、ひとつの立場となり、

これもまた綜合されるべくある。

 存在が与えられた時空の内で、自己存在を恒常的に維持していこうとすること

を調和の弁証法機構という。調和の弁証法機構では、あらゆる存在は相対的にの

み生き、決して絶対的存在を主張することはない。それは環界に対しても、また

自己自身に於ける自己の質量である自体に対してもそうである。

 食べられる者Aに対して食べる者Bは、自己存在の栄養となる限りに於て食べ

る、という配慮を為すのであり、むやみやたらに食べるのではない。同じように

して、自己の質量である身体Aに対して、その機能たる意識Bは、例えば食欲と

いう意識がBに発せられると、BはAに相談して食物を受け入れる用意ができて

いることを確認する。反対に、激しい運動の後、身体がその内分泌系によって食

欲の意識をBに働きかけたときも、Bは今ただちに食事するか、あるいはしばら

く我慢してもっと後で食べるか、更には何を食べたいか、何を食べたら良いか、

等々を、Aの状態を見ながら判断する。          

      

    *一個の存在に於て、意識は二つある。ひとつは認識であり、他のひと

     つは意志である。この二つを併せて存在の意識という。

 

 本能の世界、即ち、調和の弁証法機構を存在の方法とする世界では、自己中心

性、即ち、存在の絶対性というものはない。                

 対話的世界、即ち、調和的世界では、各存在は、自己存在内及び自己存在と環

界が調和するように配慮する。自己は身体と共に在り、また諸環境、諸生命と共

に在り、共に生きることを配慮していかねば、生存していくことができない。

 自己存在を含んだ全体が恒常的に調和して存続していくこと、これが生命に課

せられた条件であり、この条件が本能の価値といわれるものである。     

 本能的な生命世界の弁証法機構では、自体(A)と対自体(B)は対等の立場

にある。自体も対自体も、互いの綜合的調和を損ねるような越権行為をしてはな

らない。                                

 

 

 

 

                                     

     [本能存在を超え出た存在である主体存在、その所有の弁証法]   

                                     

 遺伝子本能と脳本能を持ちながら、つまり、調和という価値の至上命令を持つ

身体を有する生命でありながら、この身体を所有の対象として客体化して対自す

る、その対自体として脳主体機能を持つ存在、これが人間である。      

 本能存在は本能によって、その生命律の範囲を超え出ることのない自己了解を

持つ。彼らにも自由はある。しかし本能律の内での自由である。調和という法則

の内での自由にあっては、その自己は全体の中での立場を主張するだけであり、

自己身体の主人でもなく環界の主人でもない。彼らはあらゆる対象との弁証法的

調和を至上命題としている。                       

 しかし、人間は自らを主人とし、自己身体を含めた対象世界全体を客体として、

調和ではなく、所有することによって生きる。この本能を超え出た生存を、主体

性といゝ、その存在を主体存在という。主体性は言語を所有することによって可

能となる。人類が言葉を所有した過程は、およそ以下のようになる。

 例えば、オノという木を切る道具がある。オノは重いからいつも持ち歩くわけ

にはいかない。そこで、オノの所有者は、そのオノに「私はこのオノを所有する」

という意味の一語文“ワ・オノ”という名を与えて、そのオノが彼の所有に帰す

ることを他の者に示しておく。                    

 こうして、「私のオノ」を表示する“ワ・オノ”という言葉が生まれる。これ

に対して、「彼のオノ」は“カ・オノ”と呼ばれ、私のオノと彼のオノが区別さ

れる。                                 

 最初すべての言葉(一語文)が、このように主語を含んでいた。主語は、結果

に対する原因であり、主語の後に来る述語は、原因が成した結果である。原因と

結果、即ち因果律の成立する世界こそ、主体性による所有の弁証法世界である。

 人類初期の言葉では、すべての言葉に、「神」という主語が含まれていた。そ

れは実際に表示されなくても暗黙の了解であった。それらは「神の人間」や「神

のオノ」という意味の一語文であった。その意味は、「神が創り、所有、支配す

る人間」、「神が私に与えたオノ」ということである。           

 人類草創期の神話では、神があらゆるものゝ主人であり、人間もその例外では

なかった。しかし、やがて人間はその主体的な力を増し、神に次ぐ者として、他

の諸存在を所有、支配する位置につき、資本の支配する現代に於て、遂に、神を

駆逐して、地球を支配する位置に立った。地球は人間にとって、「私の地球」と

なったのである。                            

 最初は指で指し示すなどの動作を伴って、事物、事象は代名詞で述べられた。

「私のオノ」は、その前段階では「私のそれ」であり、例えば、“ワーレ”とい

うような一語文であった。そこから「私」という人称代名詞、「それ」という指

示代名詞が分かれた。「私」はそこに含まれる「人間」という一般名詞を生み出

しながら固有名詞の名をつくっていき、「それ」という代名詞は、多くのモノを

所有、支配するようになるにつれ、多くさんの名詞に分化してきた。   

 モノに名を名付けるというこの作業は、多くの言葉をつくり出し、人間は世界

を言語によって叙述できるようになり、世界観が成立した。

 世界に、諸存在と対等のレベルで共に生きるのではなく、世界を「私」の観点

によって意味付けることが、人間の世界観である。世界観は、最初、道具のひと

つに言葉を与えて名付けた行為の、最終的な結末である。             

 世界の諸存在を名付けるという行為は、それら諸存在を主体に対する客体とし

て、所有し、支配する態度の表明である。人間は、言葉によってモノを所有する

と同時に、世界観によって世界全体を支配する。こゝには、言葉自体を所有し、

モノを所有し、世界の因果を語ることによって世界を支配する人間がある。  

 言葉を操る能力の開発によって、人間個々は、確固たる主体性を確立する。 

 

    *赤ん坊が主体性を確立するに至るのも、この言語能力の開発と軌を一

     にする。                           

     厳密には言語能力の所有によって、自由の概念及び主観「私」の概念

     を形成し、これと平行して自己身体を所有することによって真の主体

     性が確立される。                      

 

 言葉を所有し、モノを所有し、世界を叙述することによって世界を支配する人

間の主体性とは、本能の律法から自由に解き放たれたことを意味する。主体性は、

世界の因果律の頂点に立つ。無機物質から始まる世界の因果律は逆転し、本能

をも超え、人間はいまや世界の主人として君臨し、世界を自らの手で変容しうる

力を持つに至った。                           

                

 

 

 

                    

    [意志]                            

                                    

 生命が個体、主体として、自己自身を了解する方法を持つ機関が意志である。

意志は生命が何の為に生きるのかを了解する機能である。このことを、意志は自

己存在を統覚するという。存在をひとつの目標に向けて動かす機能、動機付けの

機能である。                              

 本能存在にとっては、本能が即ち意志である。この意志は予め定められた調和

の価値を事としている。                         

    *価値は意志の目標を取り出したものである。           

 しかし、主体存在に於ては事情はまるで違ってくる。本能を自体のうちに内包

しながらも、その対自体である脳主体機能は、本能にかつてなかった独自の意志

機能を持つに至った。

 

 本能に対して主体意志といわれるこの意志の自由は、本能存在が持つ自由が対

話的調和を逸脱することがないのに対して、一切の調和を配慮しない自由の主張

を行なう。主体意志は生命のうちに根拠を持たず、生命の必然性によって生じた

ものではない。                             

 にも拘わらず、主体存在に於ても意志という生命の動機形態は生命世界の時間

空間の在り方から逃れられるものではない。存在は時間空間的に有限な存在であ

る限り、時間の始まりと終わり、空間の始まりと終わりを持つ。主体存在である

人間も例外では非ず、時間空間の始まりと終わりのそれぞれに意志を設定しなけ

ればならない。

 しかし主体意志は生命の必然ではない故に、その意志は本能意志が生命の内実

を持つのに対して、空疎な概念によって構成されているに過ぎない。     

 主体存在の意志の自由は一切の歯止めを持たない無限の自由を主張する。無限

の自由を主張できるのは、それが概念によって構成されているからであり、この

概念は現実に即さないでもよい言葉の空想的産物だからである。   

    

    *無限の自由というものが、生命が有限であることから判断して不条理

     であることは明瞭である。               

    

 主体存在が主張する無限の自由は、生命の有限性に規定されて、そこで現実的

な存在としての四つの時空に於ける意志が措定される。それは、所有力、支配力、

権力、翻弄力であり、これらの意志は自由の現実的となった姿に於てなおも無限

力を主張する。

 

 権力は空間の始まり、集団の本能が発するところ。

 支配は空間の終わり、家族の本能が発するところ。            

 翻弄は時間の始まり、休息の本能が発するところ。

 所有は時間の終わり、本能では食の本能が発するところに発している。   

 

 

 

 

 

    [意志の時間空間]

                                    

 存在の時間空間は、存在の有限性、即ち、時間空間的な始まりがあり、終わり

があることをいゝ、この有限な時空を根拠として、本能存在では本能意志が、主

体存在では主体意志が、それぞれにもたらされる。意志の時間空間は、これに対

して、意志自体の時間空間をいう。意志の時間空間性は感情という形態によって

表明される。    

 

     *単細胞生物や植物にも、われわれに知られていない方法による感情

      があると考えねばならない。            

     

 本能は生命の内実を持つ故に、本能意志はそのまゝ、例えば家族の感情であり、

集団の感情や食の感情となって表現される。               

 しかし、主体存在ではその自由意志を構成するものは生命的内実のない単なる

概念に過ぎない。それは自由という空疎な概念である。それ故にまた、この自由

を根拠とする主観、即ち「私」という主体意識も、同じく空想の産物である。 

 これら空想の産物である主体的な諸概念が、何故に感情を持つに至るのか。主

体存在は、自己の本能身体を所有、支配することによって、その身体が生成して

いる感情を手に入れるのである。                     

 例えば所有の価値概念は、存在の時空の時間の終わりの価値である食の本能を

駆逐し、その座に座ることによって、単なる概念であった所有の価値概念に感情

を得て、主体的意志となる。このことは、本能存在から脳本能機能そのものを追

い出して、諸本能の替わりに自己主体価値(所有や支配の価値)を据え付けるの

ではなく、本能の実質的な権限を奪い取って、その身体を自己主体価値によって

直轄するということである。                       

 食の本能は、弱肉強食の生命界ではあるが、必要量以上を摂食しないという全

体調和の掟に忠実でなければならない。本能とは、調和の本能である。    

 調和の本能感情を駆逐して、自己の自由を達成したものが、所有の感情である。

調和を駆逐するのは調和の反対者であるからであり、調和の反対とは、即ち不調

和=悪に他ならない。          

 本能の諸感情を駆逐することは、それら諸感情を所有して思うがまゝに変容さ

せて使用できる力の状態である。所有の弁証法は、本能存在を統覚している本能

意志を、主体意志によって思うがまゝに動かす。例えば、家族の感情は、家族の

感情であるまゝ支配され、支配されることによって、調和が圧殺され、全体とし

て不調和=悪の感情としての支配の感情に転化していく。

 「私のオノ」というこの命名は、そのオノの所有を主張して、誰もそのオノに

近付けさせないことを意味する。これは、本能存在が最低限の生存環境として縄

張りを主張する状態を超脱した、所有の為の力の拡張の主張である。     

 所有の弁証法はこのようにして、本能存在を超え出ながら、本能存在を巧みに

利用することによって、感情という意志を手に入れる。主体的な意志は、空疎な

概念であるにも拘わらず、生命に寄生することをもって時間空間の現実性をわが

ものとする。

 

 

 

 

    [根本情態性]

                                    

 主体意志を形成する、所有、支配、権力、翻弄は、無限の自由を主張する。無

限は存在にとって空間に果てるともない自由を拡張していくことであり、同じこ

とが存在の時間性では永遠の自由の果てることのない拡張となる。      

 本能存在では、個体の自由は、各立場の調和というものを配慮することから、

その自由は自ずと制限されている。                    

 しかし、人間が持った、無限、且つ永遠の自由は無制限の自由である。この無

制限の自由は、存在の力の誇示という目標を人間に与えるが、しかし、自由の力

という目標は未だ何に就いての自由の力であるのかという指示を含んでいない。

無制限の自由は、謂わば幻想の中の自由であり、現実の自由ではなかったのであ

る。無制限の自由は行き場を喪って広大な自由のなかを迷走しはじめる。自由は

迷走しながら目標の手掛かりを自由自身の中に探し求める。         

 自由は主体存在である人間が概念付けたものであり、生命の必然性から逸脱し

たもの、単なる蓋然性に過ぎない。必然性無きものゝ中の探求からは何ら手掛か

りを発見することはできない。                      

 自由の中を、目標を求めて隈なく探求することは、自由それ自身を内省してい

ることに他ならない。自由が自らを内省するとは、自由が何処から来て、何者で

あり、何処へ行くかを、自らに問い掛けることである。           

 即ち、自由の存在はその時間性と空間性にどのような意義付けを持つのか? 

 自由存在であることの意義は遂に見い出せないまゝに、自由の時空の探求の旅

は終わる。無限の自由、永遠の自由は、その自由の根拠を見い出すことがない。

自由は空想された概念の産物だからであり、本能意志のように生命によって必然

性を与えられていないからである。                    

 もし彼が、誕生と死という現実を持たずに、真に永遠、無限に生き得る存在で

あるなら、時間空間の始まりに遡っても、終わりを観じても、そこには現在に流

れているのと同じ永遠の時間が流れてい、現在に広がるのと同じ無限の空間が広

がっていて、彼は無限と永遠を意志の根拠とするだろう。即ち、彼の自由意志は、

永遠なる自由と無限なる自由によって生きつづけることを納得する。

 しかし、すべての存在は限りある命をのみ与えられて、誕生の瞬間と死の瞬間

を授けられる宿命にある。存在が有限性であるというこの事実を前にして、限り

なき自由という命題は、自己の非条理性を抱いて崩折れるしかない。有限という

現実を前にして、どうして限りなき自由という非条理が通用するだろう。  

 永遠の自由が、現実の自己の生の始まりをなおも越えて自由なさ迷いをしてい

った先には、ただ“無”のみが存していた。自己の生は誕生以前には存在しなか

ったのであるからである。同じようにして、自己の生の現実の死があったその先

には、もう自己の生は在らず、ただ“無”だけがある。無限の自由は現実生の有

限性にはばまれて、その先に、ただ“無”を視せられて空しく帰還せざるを得な

い。彼は、生存の根拠を得る替わりに、無を手にしていまや怯えている。彼が有

頂天であった無限性の自由は、いまや、空間の始まりに至って“無”を臨み見る

ことによって、不安に怯え、空間の終わりの“無”に相眼見えたことによって、

絶望し、時間の“無”によって混沌に陥り、時間の終わりの“無”は、彼をして

恐怖に震憾させる。

 不安、絶望、混沌、恐怖、主体意志は、意志の根拠を見い出す替わりに、この

四つの情態を見い出し、主体的自由は常に、これらの情態に浸されながら生きて

いかねばならない。                           

 

 

 

 

 

    [発達心理]                          

 

 赤ん坊は、道具を操ることゝ言葉を知ることによって、徐々に主体性を体得し

ていく。

 第一反抗期といわれる三〜四歳頃、小児は主体性を確立する。この時期を、身

体的自己の「自立」ともいわれるが、小児の主体性は、身体(本能存在)を所有

することを知ることによって、最終的な確立に至る。            

 第二反抗期は十歳から十五〜六歳頃、人によってはもっと遅くにある。この時

期は、確立された主体性を、更に「自律」に向けて自己の主体性を鍛えることに

目的がある。                              

  第二反抗期は親離れの時期であり、自己の人生が何の為に在るかを問い、これ

を解決する時期である。自己の人生の意義を問うことは、同時に、世界が何の為

に存在しているかを問うことである。世界観、社会観、人生観を構築する作業に

よって、家族の庇護から巣立つ心構えを形成する。

 これら自立(自律)の作業は、しかし、根本情態性に直面し、対峙し、自力で

乗り越えることによってはじめて完成に至る。               

 根本情態性は、不安、絶望、混沌、恐怖の諸感情の時空である。この心の不安

定な時期に生育史的圧迫、社会的圧迫が不安定さを増幅させると、こゝに様々な

心の病が噴出してくる。                         

 第二反抗期は、十六歳頃、青年前期に一応の終結をみるが、複雑な人間精神、

複雑な社会的、世界的環境にすべて対処して、存在観の全貌を明きらかにできる

わけのものではなく、人の死に至るまで、第二反抗期は消長を繰り返しながら、

連綿として続く。

 例えば、既に子をもうけ、家庭を構築していても、親の死というショックに対

処しきれずに、心の病を発することもある。あるいは老いに至って、自らの来し

方を振り返って、そこに空しい労力ばかりが展開されていたことに気付いて、発

病に至ることもある。これらの精神病理を発するのは、第二反抗期を徹底的に掘

り下げられ得なかった結果に他ならない。

               

 

 

                     

    [思考の形態]                         

 

 思考は対象を把握する方法である。対象とは、自己存在を含む諸存在とその運

動、及び諸現象とその運動、また想念の中でのそれらである。        

 本能存在では、対象は常に感情を持つものとして、つまり意志を了解すること

ゝ、それが何であるかを認識することゝを同時に行なう。つまり、本能存在では

存在と事物や事象を思考し認識するときは、それらが意志を持つものとして了解

することを同時進行させる。                       

 しかし、主体存在である人間は、対象を単なる概念としてのみ理解することも

行なう。概念とは、ここでは痩せ細った図を意味する。例えば、世界という存在

対象を、○のような図を想い浮かべることで理解することが、図的概念である。

言語概念というときは常に図的概念が含まれるが、図的概念は言語と結びつくこ

となく単独で可能である。言語概念や図的概念が感情を付与されずに、つまり意

志了解されずに可能なのは、これらの概念を産出する認識能力を所有、支配する

ことによる。                  

      

    *図的概念は量や質、価値、世界観などの抽象概念を図示できる。また、

     感情や官能、その塩辛さ、適度の旨さ、過度の不味さなどの具象概念

      を図的概念として図示できる。“塩辛”という食べ物などの具象概念

      も図示する。これらの抽象、具象概念を図示するとは、図的概念で認

      識するということである。                                  

      単なる計算式を与えられて計算する仕事も同じであり、その数字や記

      号に感情はない。                                             

      自由の概念というときの概念は、この図的概念である。     

     

 世界の概念が○のようになる記号的図となるところには、他の人間も存しない

し、諸々の生物、諸々の環境も存しない。巨大な都市では他の人間は単なる記号

と化し、感情と官能を持つものは自分だけと錯覚する。都市の孤独、物質文明の

孤独とはこのことで、記号的生物に囲まれた中で、孤独の感情に苛まれていく独

居老人のことが、ことに想い浮かばれる。                 

 人間は、自己を主体性とすることで環界の諸対象を客体化するが、客体化する

ことは、それを所有の対象とすることであり、世界の主人となることが、主体の

主体たる由縁である。彼は、例え、会社での平社員であろうとも、夫にかしずく

妻であろうとも、両親に口答えひとつできない音無しい子供であろうとも、彼の

主体としての矜持はなんらかの形で持たれているものである。つまり、何らかの

形で客体たる世界を従えることによって主体性を維持している。主体性とは無制

限の自由なのであるから、彼はそうしなければならない。彼は自分の自由な世界

というものに、ある瞬間浸りきることができる。その瞬間にあっては、自分の孤

独で自由な世界以外の世界は記号化されて、感情と官能を、つまり生きてあるこ

とを奪われている。記号化するということは、言葉、つまり概念によって世界を

所有することである。孤立する自由の世界に閉じ篭ることは、その外の世界を言

葉によって記号化して所有することを併せ持っている。彼はそのようにして結果

的に、世界全体に於て、無制限の自由なのである。世界のことは知らないと無関

心を決め込むことは、無関心なのではなく、記号化した簡便な図によって世界を

所有したつもりでいる。そうでなければ無制限の自由は我慢しないのであるから。

 世界を何も生命的に、実質的に了解しないまゝ、しかも世界全体を所有し、支

配していると錯覚を信じきることができるのは、主体性として無制限の自由の幻

想を持っているからである。無制限の自由は全能であるからである。彼は決して、

主体性でないこと、従って、無制限の自由以外の者であることはできない運命な

のであるから。                            

 上述のこの魔術をうまく使えない人間だけが、心を痛めることによって心を病

むという不条理を浴びることになる。                   

 

 

 

 

    [精神主体存在]                        

                                    

 人間の意志、即ち、主体的自己は無制限の自由によって成り立っている。この

絶対的自由は概念であって、生命の基礎を持たない。それ故、内在する本能存在

からその価値を追い出して、その感情を奪い取り、自らの所有とすることで、絶

対的自由の概念に生命の内実を与える。

 本能の諸調和価値を追い出すことは、本能に対する悪意であり、反調和価値を

標榜することである。                          

 絶対的自由は、また一方ではその無制限の自由故に、根本情態性に常に晒され

て、怯えている。                            

 本能、絶対的自由、根本情態性は以下のように関係付けられている。 

   

  (存在の時空)   (本能)    (主体)  (根本情態性)    

   空間の始まり  =  集団 ─── 権力 ─── 不安        

   空間の終わり  =  家族 ─── 支配 ─── 絶望         

   時間の始まり  =  休息 ─── 翻弄 ─── 混沌        

   時間の終わり  =  食  ─── 所有 ─── 恐怖       

 

 人間という存在、それは本能存在でありながら、つまり調和者であろうとしな

がら、同時にその反対の者、不調和を希求している者である。この自己矛盾を解

決しようとする主体性が、精神主体存在である。              

 精神主体存在に至る道は、根本情態性の中にある。第二反抗期は根本情態性と

対峙する時期である。多くの人は、怯えと苛立ちのこの不安定な時期を、不安定

さ故に闇雲に突走って、安易な解決で慢心してしまう。           

 安易な解決には二通りある。一つは根本情態性の洗礼に耐えられなくて、早く

離脱したいばかりに、自力で価値を打ち立てることをあきらめて、内省していた

当のもの、自由の中へと撤退してしまうことである。いま一つは同じような理由

から、自由の中へと閉じ篭り、その自由の力を頼んで引き返し、根本情態性を粉

砕突破してしまうことである。最初に示した態度は、虚偽といゝ、次に示した態

度は、狂気という。                           

 人間自己の絶対的自由の態度は、既に悪であるということを示してきた。人間

とは、自己存ることそれ自体が悪=罪であり、これを原罪という。

 いま、根本情態性に臨んで、自由それ自体を深く内省しないまゝ、自由の中に

逃げのび、更に自由を増長する態度に出るならば、それは遂に、自己存ることの

原罪を知らないまゝであるばかりか、却って自由を弁護し、自由を助長するとい

う、原罪に加えるに更に罪を以ってすることに他ならない。虚偽は原罪+小悪の

存在となり、狂気は原罪+大悪の存在となりゆく。             

 侵略戦争に加担していく一国民、地球を侵略していく物質文明を支える一市民、

これは虚偽という精神の疾病に罹患している姿である。国民を侵略戦争に投入す

る独裁者、資本主義社会に甘い汁を吸おうとする、頭脳的暴力的犯罪者、これら

は狂気という精神の疾病者たちである。                 

虚偽や狂気は、人間が主体存在として生きていく上で止むなく所有する絶対的自

由の原罪の上に、更に罪を積み重ねていく生き方である。これを自己主体存在と

いう。自己主体性は自己の自由、即ち、所有、支配、権力、翻弄の諸力を無内省

のまゝ温存していく。 

 これに対して、第二反抗期に始まる自由の内省を、根本情態性の砲火を浴びな

がらも果敢に進軍して、根底の目標にまで導かねばならないと決断する人間がい

る。それが精神主体存在になろうとする人間である。            

 精神主体存在になろうとする者は、自らの内なる声、本能の調和の声に傾ける

耳を持っている。その声は、恣なる主体的自由の行為を諌め、恥入らせる響きを

持っている。彼はこの響きを胸に忘れない故に、なおも根本情態性に踏み留まり、

自己の自由を点検する。

 自由とは所有、支配、権力、翻弄の力であり、自己主体存在が、これを彼の生

きる目標、その意志の価値としたところのものである。他者を支配し、諸存在を

翻弄するような生き方、果たしてこれが正しいであろうか。自由に振る舞うこと

は恥ずかしく、罪深いことではないか。                  

 自己の内なる無意識の調和の声は言う。人は何の為に生まれ、何の為に生き、

そして死んでいくのか。恣なる荒れ狂う心を抱く為に生まれてきたのか。そうで

はなく、自分と共に生きる人々と諸生物とに和し、謙虚な調和の心を胸底深く湧

かしめる為にか。

 彼、精神主体存在は、自由の無が呼び寄せてくる根本情態性の不安、絶望、混

沌、恐怖の諸感情を打ち消そうとして、荒れ狂い踏み潰していっても、なおも彼

の背後に従い就いてくることを知ると同時に、無意識的な本能の調和心が心に湧

き起こってきたときは、それらの感情群は跡型もなく消え失せることを知るので

ある。                                 

 不安、絶望、混沌、恐怖は、実は、本能の四つの価値が胸中から駆逐されてい

ることの本能自身の嘆きであったのである。    

            

 集団の本能の調和の心が失せると不安が生ずる。             

 家族の本能の調和が消失すると絶望が、    

 休息の本能の調和の破壊によって混沌が                 

 食の本能の調和の解体によって恐怖が、それぞれ生ずる。  

       

 自由が絶対的自由であるときは、自由は慢心して自己に恍惚としており、その

限り根本情態性から逃れている。しかし、自由は、一瞬でもその所有力の目標を

見失うと、そのとき自由は内省状態となり、自由は無となって根本情態性に襲わ

れる。自由が絶対であることは、主体の意志は、所有、支配、権力、翻弄力に充

ち溢れていることである。しかし、自由が自己を一瞬でも内省すると、自由は無

となる。自由は時空の始まりと終わりに自己の根拠となるものを何も見い出せな

いからである。                             

 自由が無となるということ、それはこのとき、意志が目標とすべき価値を喪っ

たことである。価値の喪失は、自己に内在する本能の価値の喪失と、自己主体性

価値の喪失の二つを含んでいる。                     

 

 本能価値の喪失に限っては、自由がその絶対力を行使しているときにも喪失さ

れている。喪失されているが、自由はこのとき目標に邁進しており、その喪失し

ていることを忘却する。                         

 自由が無を知るということは、即ち本能価値が無となったことを知ったのであ

る。本能価値の無とは、調和の心の喪失のことであり、存在の時空の調和の喪失

のそれぞれの嘆きが、不安、絶望、混沌、恐怖の心に他ならない。根本情態性と

は、実は主体に内在する本能の、主体に本能の調和の心が駆逐されていることの、

内的な声に他ならない。                        

 精神主体存在は、この悲痛な内的な声にこそ、存在の真意が宿っていることを、

無意識裡に覚る。不安や絶望から逃れたり、突破を謀るのではなく、不安や絶望

に就き従うのである。不安や絶望は、やがて己の故郷に帰っていくものだ。就き、

従っていけば、そこには本能の心地良い調和の誘いが待っている。    

 精神主体存在はこのようにして、根本情態性が何者であり、この者に対しては

どのようにすべきかを学ぶ。彼は、自由のもたらす価値の不調和、その生命の自

己破壊性を、本能に学ぶことによって判然と知るが、しかし、彼は自由を棄て去

ることの不能をも、また、知るに至る。自由を放棄することは主体であることを

放棄することであり、それは人間としてもはや不可能だからである。     

 そこで彼の為し得る道は唯一つしかない。自由の意識をより明確に把握し直し

て、自由を常時自己管理の下に置くことである。自由とは所有、支配、権力、翻

弄の各力である。この力を棄てることができないならば。この力を管理によって

鎮めなければならない。それは自由という原罪を認め、この原罪=原悪をそれ以

上の罪に進ませない為に、管理者を置くことである。            

 その管理者は所有、支配、権力、翻弄の自由の諸概念の反対概念の他にはない

だろう。それは調和の概念であり、この概念を産出できるのはただ一人、本能意

志だけである。精神主体存在は、自由が駆逐して制圧している本能の調和意志を、

今度は自由の主体意志の上に位置させて、本能意志が自由意志を統禦する体制を

つくる。これによって自由の原罪を中和するのである。自由意志は本能が摂理価

値を行使するときは、無制限の自由を発揮して、これを後押しする。但しこれは、

精神主体性が本能意志に学ぼうとしていることを意志の力学の比喩として述べた

のであり、主体はその意志に摂理価値を新たに書き込むのである。    

 言語の能力は、この主体意志に支えられた本能意志の、集団の本能から“善”

を、家族の本能から“愛”を、休息の本能から“美”を、食の本能から“感謝”

を抽出して言語化する。この四つの概念は理性概念と呼ばれ、この存在の意志に

関する理念を他の諸概念から分けるのである。これらの理念をしっかり意識して

保持することによって、第二反抗期の自律は精神主体性へと向かう。  

 

        

⇒“治療の為の存在分析”(プリント)           

         P37

 

 

 (自己主体価値) (本能価値)  (根本情態性)  (精神主体価値) 

                                                             

       ┌─┐      ┌─┐      ┌─┐     ┌─┐ 

    権力 ││   集団 ││   不安 ││   善 ││ 

       │ │      │ │      │ │     │ │ 

     支配 │識│   家族 │意│   絶望 │意│   愛 ││ 

       └─┘      │ │      │ │     └─┘ 

    翻弄       休息 ││   混沌 ││   美     

                └─┘      └─┘         

    所有       食        恐怖       感謝    

                                     

 

 精神主体存在は、無意識の本能の叫びであった根本情態性に導かれて本能の調

和に達し、この本能の価値を概念に移すことによって、主観上に調和の理念を結

果し、以後、精神主体存在は、理念と内観、即ち、精神価値と本能価値の両者に

よって、己の行為を律する。精神価値と本能価値は同じものである。精神価値を

理念として言語的に表現できることは、精神主体性の必要な能力である。

 例えば、精神主体存在にとってどんちゃん騒ぎの食事などあり得ない。動物は

皆、慎ましい限りの食行動をしている。それを精神理念化したものが“感謝”と

いう調和の心であり、感謝できるにふさわしい食物内容、食事内容というものが、

自ずと頭に描き出される。人の住む家屋というもの、“家は雨の漏らぬ程度を良

しとする”。人の貯め込む金銭というもの、“金は天下の回りもの”。人の着る

着物というもの、“破れ綻び意に介さず、清潔なれば最上とせよ”。人間が精神

に至れば、自ずと物質文明に制限が加えられる。             

 自己主体価値は力の奔逸であり、知識や技術や資本や物の数量的圧倒を目指す。

これに対して、精神主体存在は、知識、技術、資本、物等々の人類文明を、質的

高さに於て維持しようとする。質的高さとは、善、愛、美、感謝の心が知識や技

術や資本や物等に宿りうる限界を超えないことである。“過ぎたるは及ばざるが

如し”、真に、われわれ人類の為したることはこれであり、愛、善、美、感謝を

超過した物質的快適の追求によって、地球環境の快適を破壊しつゝある。   

    *中庸とはどのあたりか?精神主体存在に課されている命題である。 

 人間の全感情は四種類の感情に集約される。それは、本能存在の時空の各区分、

つまり、集団、家族、休息、食の四つの感情に集約される。        

 例えば、これら四区分の各感情の一つ、空間の終わりに発する価値感情である、

家族の感情に集約される感情群は以下の如きである。           

    (本能感情―無意識)      (主体感情―意識)

   家族の感情=調和の感情     支配の感情=反調和の感情     

   絶望の感情=不調和の感情    愛の感情=調和の感情

 絶望は家族の調和感情が喪失されて、まさに望みが断たれた状態、調和の無の

感情。支配は家族の感情から調和価値を追い落として、自らがその位置に就いて、

反調和の感情となること。愛は家族の感情に導かれて、支配の感情を調和の感情

に矯め直す。絶望の感情などの根本情態性は、究極の不調和、調和の無の感情で

ある。                                       

   絶望 ― 調和の望みが絶たれている。                

   不安 ― 調和に安らがず。                     

   混沌 ― 調和が混沌として、視えない。               

   恐怖 ― 調和の喪われた世界が、恐く、怖ろしい。          

 支配や所有の感情が、反対的な調和の無の感情であるのに対して、絶望や恐怖

の感情は、否定的な調和の無の感情である。                

 動物が穴に落ちる。彼は絶望する。乳飲み子を残しているからである。家族の

感情が絶たれる。絶望が過ぎ去ると調和への希求が始まる。彼は、絶望の状況に

置いた穴に向かって、悲しみ、嘆き、自分の行動の不注意を悲しみ、嘆き、遺さ

れて危ぶまれる児の境涯を想っては、悲しみ、嘆く。彼は這い上がろうとしては

滑り落ちる。彼は、穴を恨み、呪い、憎む。自分の能力のなさ、その無力を恨み、

呪い、憎む。乳飲み子をこれから襲うであろう、冷たい雨、厳しい日射、何日も

続く嵐、また彼を喰らうであろう捕食者を想っては、それらを恨み、呪い、憎む。

そして遂には、それらの恨み、呪い、憎しみは怒りにまで達する。彼が穴に陥っ

ている状況に変化はないが、彼の心は瞬間毎に変化していく。この変化は、下底

に調和の無を、上天に調和を配した、その間に起こる感情の力学である。どの感

情も、調和の無力と、調和の充足力の二つの力に拮抗しつゝも、無力の方に傾く

と悲しみが、充足力の方に傾くと怒りが発せられる。          

 根本情態性は、それ自身無力で呆然自失した情態である。そこに調和の希求が

少し立ち戻ると、悲しみ、嘆きが、絶望の中に混じてくる。絶望に震えていた者

は、悲しみ、嘆くことによって、少しずつ力へと、希望へと歩み寄っていくので

ある。

 人は喜ぶ。それは家族皆、互いを思い遣り、病気することなく、今日も慎まし

やかな食卓を囲むことができたからである。  

 人はまた悦ぶ。息子が思い通りに親の希望する大学に入れたから、恥ずかしく

ない程度であるばかりか、よその娘よりも豪華な結婚式を娘の為にしてやったか

ら。                                  

 前者の喜びは、家族の感情、愛の感情、休息の本能による健康の感情、食の感

情、感謝の感情が満たされたからである。後者の悦びは、息子を支配する感情、

息子の○○大学という肩書きを、まるで自分の権力が増大したかのように得意に

なる感情、結婚式にこれだけ豪華な散財を為せるという所有の感情が、充たされ

たからである。前者の喜びは調和に基づいた謙虚な心であり、後者の悦びは反調

和に基準を置く、調和に唾する不孫の心である。              

 人は言う、平等とは全世界の人間、全地球の生物を含む判断でなければならな

い、と。

 また人は言う、平等とは働いた労力に応じて、その能力、その地位、その資本

力に応じて、それぞれ手に入れる報酬である、と。

 前者は、環界全体の中で自分は一つの立場に過ぎないことを知っている。これ

に対して後者は、世界全体を記号化することによって、客体化してその生命を奪

い、利己的主体と化して世界を収奪すべき資源と見立て、勤労の美徳の名によっ

てその所有力を充たす。 

 所有や支配の主体的自由の感情によって主体である為には、環界の諸対象を客

体化しなければならない。客体化には、対象を記号化することゝ、対象を所有や

支配の為に存在するものとして了解することゝ、この二つの方法がある。どちら

も対象を所有や支配の対象として、前者は言語による概念の所有と支配によって、

後者は対象が所有、支配される意志を持つ存在とすることによって客体化する。

後者の場合には、非生命、生命を問わず、対象は意志ある存在として了解される。

前者の言語的記号化は、意志了解のない、単なる認識、具体性のない抽象化であ

る。

 抽象化が組織的になると、それは世界観となる。世界がこれだけ広くなり、複

雑になると、一つひとつの出来事、例えば米国を襲った大ハリケーンを、被所有

の意志を持つ客体として了解するにせよ、いちいち感情を投射して、了解という

具体的想像をしているわけにはいかない。自分を直撃するのでないハリケーンは、

その猛威を具体的に感じる必要はない。こうしたものは、言語的記憶に留めるだ

けでよい。こうした記憶の整理が世界観であり、それは記号的体系であり、抽象

的、観念的世界に過ぎない。一方、被支配、被所有の存在として対象を了解する

ことは、支配や所有される意志ある感情と官能を有する存在として、生命的に了

解するが、この生命の具体性には調和的意志が欠いていて、親しい生命、本能の

懐しい生命はない。動物をペットにするとき、その動物は、半分は被支配意志の

生命として、半分を本能の調和意志のある生命として了解するのである。  

 どのような凶悪人であれ、自殺することがある。自殺は、どのような場合であ

っても、根本情態性に陥ることによる現象である。凶悪人は、その人並外れた自

由力を、根本情態性を粉砕突破することで得ている。根本情態性に陥ることは、

この自由力を失くすることである。つまり自由は無となって、自己の無力に絶望

することによって、自殺に至る。

 人間の自由は単なる概念であって実有ではない。人は自由を実有化する為に本

能存在を、つまり身体を所有する。身体は所有されるときに悲しみ、泣き、叫び、

そして遂には無力感情となることが、根本情態性である。

 粉砕突破するということは、本能を打ち倒し、深い痛手を負わすことである。

粉砕突破された調和意志は、通常よりも更に痛手を感じている。つまり、凶悪人

の自由力の背後に辺張り付いている根本情態性は、根本情態性から逃げる虚偽よ

りも、その存在感は大きい。     

 凶悪人の凶悪な行為がエスカレートするのは、自由力の背後に辺張り付いて泣

き叫ぶ根本情態性を、瞬間毎に打ち倒し、その壁を突き抜けて、自由の時空へ侵

入する必要があるからであり、ますます大きくなる深い傷といよいよ募りゆく絶

望の嘆きを、彼の自由力によって常時押し返す必要があるからである。つまり、

自由力はますます巨大にならなければならない。              

 しかし、それ故にまた、凶悪人にとっては根本情態性が身近なものとなり、虚

偽の自己主体性の、根本情態性から逃げおゝせたかのような知らぬ存ぜぬの態度

よりは、親鸞が言う悪人正機の機会がある。但し、正機する躓きというものがな

ければならない。凶悪人が躓くのは、聖母のような愛の心である。 

 凶悪人は愛の心に出逢うことによって立ち直るが、それは出逢いそのものによ

ってではなく、出逢いによって開発された自らの本能心の声を聴くことによって

である。彼は自らの摂理価値によって自らの心の穢れに気付く、気付いたところ

は根本情態性と心が同調したところである。生命は本来、美しい心、愛の心に充

たされるべきであったという悔悛、何という穢らわしい命を生きたかという、取

り返しの付かない絶望、根本情態性と真に対峙したこの時空を生きることによっ

て、彼は人間性の端緒を拓く。それは根本情態性と真剣に対峙することによる摂

理価値の内観によって、自らの罪性に至ることである。

 罪性に至れば人は決して自殺することはない。倒産その他による経済的破綻、

入学や入社その他の社会的試練の敗北、家族的、社会的な心の痛手、事故による

障害、病気、虚偽や悪の企らみの崩壊、等々、人は、自分の自由力の減衰そのも

のゝ絶望によってのみ自殺するに至る。精神や摂理本能に於ては、自殺は無縁で

ある。囚われの反抗による餓死、調和の為にわれとわが身を差し出す自死、これ

らは人間だけでなく、生物界一般にみられる現象であり、例えばレミングの集団

自死などがあるが、これらは自由力の絶望に起因する自殺ではない。鯨の集団自

殺といわれる陸への乗り上げ行動は、おそらく地球磁場で方位を探る彼らが、地

磁気異常に反応してしまった結果である。

 唯一例外は蟻である。蟻は隣接巣同士の戦闘殺害行為、並びに卵の誘拐行為を

行なうとともに、パニックのときには自分の胸を咬み破るという自殺行為を行な

う。蟻にあっては摂理モラルが破られている。何故破られたのか。働き蟻は生殖

本能から解放されている故に自由を知るからである。何らかの自由力なしには自

殺行為は行ない得ない。鳥、ライオン、猿の同属殺害行為には準主体的自由が認

められるが、蟻にあっては変則本能による個体的自由の突出があると解さねばな

らない。                               

 自由力だけがよく自殺を可能為さしめるのであり、自由の不全によって根本情

態性と間近に相眼見えたところで、踵を翻すや残余の自由力で自刃に果てるので

ある。自刃を振う力は根本情態性の力ではない。根本情態性は不安や絶望に嘆き、

現在の境涯におそれ、おののくのであり、一刻も早くそこから離脱すべき調和の

本能の警告である。自由の力は反本能であるから、根本情態性が本能の発する声

であることを知らない。自由の無に伴っていよいよ鮮明さが増してくる不安や絶

望を、それが自由力が遂に終えたという兆であると観る。“もはや、こゝまで”

と、自由は根本情態性の真のメッセージを読み取ることのできないまゝ、パニッ

クのうちに自らと刺し違える。   

 彼らに足らなかったものは何か?愛の勇気、美の勇気、感謝の勇気、善の勇気

を奮い起こせなかった。愛の勇気を出す為には、自由力は強大とならなければな

らない。それは以前のように根本情態性を退避したり、突破することによってで

はなく、根本情態性に教化されることによって、自由が愛を雄々しく掴んでいる

様を、胸中深くに想像、了解できねばならない。この為には、根本情態性の試練

に耐えた、真の自由力を得なければならない。            

 己の罪、己の病苦、他者から受けた心の傷、こういった生の調和の否定に対し

ては、聖母のような愛の心の具体的な存在に出逢って励ましを得るか、さもなけ

れば自己の胸中深くに湛えられている本能の調和心を自己努力によって内観し得

るか、このいずれか、あるいはもっとも好ましくはこの両者によって、否定を凌

駕する肯定心を見い出し、養われることによって、危機を突破できる。

 罪の心は、感謝、愛、善、美の理念によって自己の行為を判断するときに、恥

の心は、食、家族、集団、休息の本能の調和心が無意識裡に働いて、自己の行為

を判定するときに、それぞれ生じてくるものである。            

 自由は単なる概念である。自由という名のこの主観が第二反抗期に及んで自律

するに至るとき、所有や支配の理性概念を獲得すると、こゝに自由の肯定が生じ、

この肯定によって子供社会から成人社会へと自由を侵入させ、実利的自由の拡大

へと向かう。これらの概念化は、○+☆、あるいは○+⇔の如き概念となる。人

はその自由力に何か目的を与える。その目的の達成、例えば試験に合格する、十

分なステイタスとなる車を購入する、ジョギングの厳しい日課を果たす、娘を恥

ずかしくない家柄の相手に嫁がす、こうした動物の本能世界にはない自由力の拡

大に関する満足の心は、それ自身単なる概念であって、自身は生命の内実を持た

ない。それは、所有や、支配や、権力のほくそ笑みというものであって、本能の

調和の心の喜びとは関係しない。自由それ自身、及び自由の拡大は、概念に本能

存在から奪ってきた感情を付け足したものである。           

 人は資本主義社会に過剰な労力を行なう。また、過剰な利潤を追求する。それ

ら過剰分は、上述のような自由の拡大の為に為される。過剰分を除いた残りの少

しだけが、家族や食の本能の正当性を有する。              

                                    

 

 

 

    [存在の構造]                         

                                    

 本能存在の個体構造を次に示す。                    

 

 

⇒“治療の為の存在分析”(プリント)           

        P49

             
                  〈本能存在〉

         ┌────────┬────────┐                        
                                                              
                     意志│統覚                                   
                                                               
         │知覚        身体│定位        知覚│                      
                                                             
                    感│情                                   
              ┌───┴───┐                            
       - - - -│  我       - - - -   脳本能機能                    
              └───┬───┘                             
                     運動│統覚                                   
(身体)│                                                     
         │感覚        身体│運動        感覚│                       
                                                              
                       官│能                                  
                                                           
         └────────┴────────┘                   
  

 

∴脳身体+脳機能が我観(自我及び思考)である。

肉の塊(質量)は筋肉という機能を内包しているように、

脳はその塊(質量)に思考する機能を内包している。

  

∴脳身体というのは脳の質量のことであり、我観はその脳の一部を占める。

脳神経全体は感情や官能、知覚や感覚を生成したり感受する部分(統覚)を含んでいる。

従って、自我や認識思考に関する部分は、大脳や小脳に限定される。

脳も身体の一部であるので脳身体という。

 

∴脳は他の領域では感情・官能・知覚・感覚(脳本能機能)の機能を内包している。

植物は細胞存在である。脳を有する昆虫や動物は個体存在である。

細胞存在は細胞身体に対峙する細胞機能の弁証法機構である。

個体存在は、この細胞存在を身体質量とする脳本能機能を対峙させる弁証法機構である。

自我と思考に関する我観の機能を脳機能と呼ぶので、個体身体全体の機能を脳本能機能と呼ぶ。

 

∴上の概念図で縦線で左右に半分に割ったのは、

脳本能身体+脳本能機能の弁証法機構の概念的理解のためである。

存在は全体が身体であり、そして機能でもある。

 

∴同じく横線で上下に半分に割って、意志統覚と運動統覚を区分しているのも概念的理解のためである。

 例えば、感覚受容器と知覚受容器は個別の限定された器官ではあるが、

知覚も感覚も身体全体で発動される。

定位統覚と運動統覚に関しても同じである。

心臓は血液循環を担っているが、同時に、身体の一部として身体という存在全体のに組み込まれた、

存在全体を担っている。

こういう関係を個即全という。

 

∴我観(思考)はそれ自身の弁証法、即ち、発展的弁証法(所有の弁証法)を行ない、

存在運動をより効果的に誘導する働きを担う。

 

 

 

 本能存在は細胞存在を自体とする脳本能機能の対自体による弁証法機構である。

細胞存在は、本能の個体存在にとっては身体としての存在の全質量である。従っ

て、単に身体と呼ぶこともある。                    

 存在は、その弁証法機構、即ち、身体と脳神経機能の全体を、対環界に於て存

在運動をなさしめる為に、二つの機関、あるいは機能分担領野を設定している。

一つは意志統覚であり、感情の価値判断によって存在を調和的生存へ導く役割を

受け持つ。もうひとつは運動統覚であり、意志の導きを受けて実際の調和的生存

を工夫する仕事を受け持つ。統覚は、環界に対して個体的自己が調和的に在ると

いう意識であり、意志統覚は知覚によって、運動統覚は感覚によって、それぞれ

対環界を感知覚して統覚の判断を促す。                  

 存在の全体は、環界を自体とし、自らを対自体とする調和の弁証法機構によっ

て機能している。その際、機能は質量を保有しないから、存在は環界に対して機

能のみとして在り、その身体質量は環界に属している。つまり、身体に対する脳

神経機能の弁証法構造に於ける環界の一部である身体を、環界に帰して、全体を

環界とすることに同じである。                      

 食物は環界に依存しており、自己の身体とは環界から得られた有機物質、無機

物質によって合成されているならば、存在の質量は環界に属している。従って、

存在とは環界それ自体のことであり、存在することは環界に対する機能となって、

環界が調和的に存続するように配慮することである。環界とは光、熱、空気、大

地、水、他生物、他者を含む、存在に関係する全体である。        

 自己が他者等環界との弁証法に這入るときには、自己身体という環界の一部と

の弁証法を既に、間に置いている。従って、自己存在自体が環界の一部であるな

らば、自己が対他者との弁証法的関係に這入るに際して、二者の素性が環境世界

そのものとして既に親近している。存在はすべて環界に属しているのである。

 調和の弁証法世界に生きる動植物は、主体存在のように己の身体を所有、支配

しない。動物に於ける個体的自由は、調和の弁証法の中で、調和の弁証法を実現

する手法の自由である。“身体は己のものではない”これが本能生命の掟であり、

この掟の目的は環境世界の調和的存続にある。自己身体が自己の意識を載せて意

識と共に動くことをもって、身体を自己のものとするような意識は本能世界には

ない。

 主体存在である人間に主観があるように、本能存在にも「我観」というものが

ある。我観は思考の能力であり、図的概念の体系であり、それによって個体的自

由を可能とする。我観は二つの統覚とは別に、脳本能機能の残余の自由領域を占

めて、存在の全体験を図的概念にして保存する。二つの統覚が存在のほぼ全体で

あり、脳身体+脳機能という脳の一部に極限された機構が我観であり、統覚の内

部で行なわれる脳身体+脳機能の思考とは別に、我観のみの思考が行なわれる。

 つまり、この思考は身体全体とは対自しない、脳の一部のその内部だけで行な

われる。この思考による図的概念の体系は、我観というひとつの統一性あるもの

を生み出し、その統一によって思考の秩序が可能となる。

 我観に於ける図的概念の基本図式は意志統覚、並びに運動統覚が産出する。我

観はこれらの図式を用いて判断と認識の思考を行なう。従って、我観に於ける思

考は知覚も感覚も持たない。従ってまた、思考の内容を、思考者の外にいる他者

は知ることはできない。思考が血肉化したときだけ、何を考えていたか分かるだ

けである。思考の血肉化とは、身体が思考の内容に想像的了解を与えることであ

る。思考の了解は、思い出し笑いや、思考内容の現実的行動である。     

 我観の思考の図的概念は、経験則として存在運動を効率的かつ迅速にするとと

もに、演繹あるいは帰納されて、以後の存在運動を円滑、かつ自由にする為に使

用される。我観は運動統覚、並びに意志統覚の全存在運動を図的概念化して、存

在運動の全体を把握する能力であるとともに、対象世界の一々も自己の意志統覚

と運動統覚を投入して解釈されるが、これらをも図的概念に体系化して世界観的

体系として保存する。即ち、存在の経験を体系化してこの経験を行動に生かす。

 我観には個体的自由が付与されているが、この自由は本能価値を何時何処で、

どのようにして為すかという自由である。例えば恋の相手を選ぶ自由や、何処に

巣を造るかという自由であり、自己身体を所有して、本能価値とは別の目的を与

えられるような自由はない。即ち、機能に過ぎない我観に価値を産出する力はな

い。価値を産出するのは常に意志統覚である。    

           

     *存在が何故存在するのか、と問うことは本能世界では関知しないこと

      である。しかし主体存在では、存在は偶然性である、としか捉えられ

      ない。それ故に主体存在では、生きる目的、その理念が恣意的に措定

      される。                         

  

 知覚は、意志統覚の価値判断の為の、身体の内、外部に置かれた判断材料集収

器である。例えば空腹の知覚は脳中枢に伝えられて、価値判断され、その結果意

志としての感情が生ずる。感情は存在の目的に就いての達成、不達成、つまり調

和、不調和の存在定位を示す。存在定位は、身体定位あるいは主体度ともいう。

知覚は身体に傷を負った、あるいは仲間がやってきたことなどを覚知する能力で

あり、脳機能は知覚判断図式を持っている。判断することは認識され思考される

ということを含んでいる。但し、この思考は不随思考であり、我観の自由な思考

とは異なる。知覚判断は良、不良の判断であり、これは脳身体と脳機能の綜合に

より行なわれる。良、不良の判断は更に価値判断される。価値判断は身体定位の

図式によって判断される。身体定位図式は調和、不調和の図式であり、これは時

空の連続、不連続の図式である。時間、空間が連続しているという図的概念は、

調和であり、それは現実の身体に就いて生きていることに満足している様子を述

べている。幸福の状態の時に訪れた楽しい友人は、幸福の上に更に幸福の最上屋

を重ねる如くである。反対に不連続時空にある不満足の状態の図式が現在の価値

状態であるならば、知覚判断された最良の知覚対象も余り嬉しいものでなくなる。

友人は気詰りして帰ってしまうか、悄気ている友を慰めるかしなければならない。

身体定位図式の連続、不連続の図的概念はそのような現実の身体存在の幸、不幸

を図式化したものである。その図式はまたそのまゝ感情の図式でもある。本能存

在では悲しいという言葉はないが、悲しい心の状態はあり、悲しい心は身体全体

で表現されているものである。

 生きていることは現在既に価値判断されている状態であり、その状態に知覚の

良、不良の判断が休む間もなく順次価値判断される為に這入ってくる。判断の基

準となる価値は言うまでもなく全体調和を目指す四つの本能価値である。

 存在の現在の感情、つまり意志の調和、不調和の状態を主体度というが、その

主体度に基づいて、今度は運動統覚の身体運動が存在の不満足を解消する為に行

動を起こさねばならない。その際、環界の情報集収器である感覚が、身体運動を、

その手足に比すべき役割を果たして導く。感覚は知覚と同じように脳機能に感覚

図式を持っており、快、不快の判断を行なう。判断されたものは例えば痛みとし

て身体に感ずる。痛みの感覚は次に身体運動に関する価値判断に供される。価値

判断されたものは官能である。この場合に、存在の意志は感情であり、その身体

定位に関する価値判断の方が、身体運動の価値判断に優位する。運動判断は身体

運動の図式により時空の伸縮をもって判断する。時空の伸縮の図式は、身体+脳

神経機能による身体運動の、脳神経機能の能力が産出するものであり、それは身

体運動の図式である。判断はすべて脳機能が図式によって行なうが、判断された

結果の感情や官能は身体と脳機能の綜合である。官能の価値は、感情の調和、不

調和に対して、親近、疎遠、または親疎で判断される。親疎判断は、時空の伸展

に於て親近判断を為し、時空の緊縮に於て疎遠判断をする。伸びやかな身体運動

はそのまま官能の親近であり、堅く縮む身体運動は官能の疎遠である。   

 価値判断に関する二つの図式、身体定位図式と身体運動図式は価値判断に供さ

れるとともに、同時にそれは身体の姿勢の図式であり、身体の実際の動き、運動

の図式である。時空が切れ々れで不連続であることはその姿勢を維持し難いこと

であり、時空の連続性の図式は姿勢の調和的な自然な様子を表わしている。調和

の姿勢は精神感情の身体表現、身体言語である。その姿勢は静止状態にだけある

のではなく、身体が運動している時々刻々に表現されている。そのような定位図

式の基に、行動が為される。

 運動図式は身体の伸び縮みの図式である。人は骨折した脚を拘縮させる。ギブ

スはその拘縮を眼に見える形にしたものである。痛みの不快は官能の価値判断に

よって時空の縮みと判断され、疎官能となる。官能の疎は自己の痛む脚をできる

だけ周りのモノに触れないように縮めておくことである。縮めるという身体の運

動が疎官能の身体表現である。身体表現はまた同時に疎の心の表現である。疎官

能はこうした身体運動であり、この運動は感覚が痛みを、即ち不快を感じている

間は縮み判断の結果として為されなければならない。官能が身体運動そのもので

あるということは、主体存在、即ちわれわれ人間の表情筋の動きがそれをもっと

もよく教えてくれる。ほがらかな笑いは顎関節筋の伸張であり、微笑みは唇筋の

左右への伸張である。これらはまた身体定位、即ち感情としての姿勢は左右対称、

ゆったりした姿勢をもって調和を表現している。残忍な笑いは感情の姿勢に於て

その怒りの為に左右非対称となり、官能の親に於て唇筋は右側に引きつれて伸張

される。嘲笑い(あざわらい、せゝらわらい)は残忍の大悪に対して、小悪の残

忍である。眉を顰める(ひそめる、しかめる)は不愉快な出来事、即ち知覚の不

良、感覚の不快に対する時空のそれぞれ不連続、緊縮の判断である。眉を開くは、

微笑む(頬笑む)に通ずる。頬歪むは嘘を言う、不正な企みの露見であり、頬笑

むに対して頬は痙攣的に拘縮し、定位は不連続時空にあり、調和を失う。 

 意志統覚と運動統覚は、常にこのような判断を止むことなく行なっている。感

情及官能判断は、それぞれ存在目的と目的展開を機能分担し、存在が環界に適合

して、恒常的であることを追求する。                   

 思考は認識と判断の能力であり、観念とも言われる。思考の能力の一部が独立

して我観を形成する。我観に於ける思考は身体に対自することなく、演繹帰納で

きる自由宰領の領野である。しかしその思考の自由は本能存在であることを超え

出るものではない。

 主体存在であるわれわれは、記号や言葉を単に点、線、面、動きの方向の組み

合わせとして所有する。音素や音列もそのようにして理解される。それは単なる

言語記号として所有されているだけであり、言語記号それ自体は了解されない。

このような言語記号の体系が「主観」であり、主観は本能存在が本来、存在の全

体の連関の中でしか使用することのなかった思考運動の能力を、それだけで抽出

使用するようにした能力である。主体存在での主観を維持する思考運動の能力は

大脳皮質の一部に特定できる。その一部とは我観であり、その肥大した皮質は決

して主観機能の為に存在が準備したのではなく、アクロバティックな運動や筋力、

持久力などが訓練によってその能力を得るように、言語的能力としての脳機能、

即ち肥大した我観は訓練によって可能となったものである。この訓練の累代の積

重が質量としての脳機能領野の遺伝的形成となる。 

 概念は常に了解概念となりうる。言語、記号の場合も、その音、その書字は、

それぞれそれ自体として自己の存在全体を使って了解される。つまり、点、線、

面、音素、音の抑揚などが自己の意志と身体を投入することによって了解される

のである。言語、記号を所有する、あるいは言語体系といわれるときは、実際の

指示内容を含まない単なる痩せた印としての言語記号を言う。言語概念というと

きは、その指示内容を図的概念として持つ。“ペルーの首都は?”と問われて、

“リマ”と答えるとき、それは了解概念としてあるか、または言語記号に図的概

念が結び付いた言語概念としてあるかどちらかである。

 言葉の発生でみてきたように、幼児は最初、一語文を使う。こゝから言語の分

化が始まるが、それは全体としての存在運動を要素に分解してしまうことに他な

らない。われわれはこの分解されたものを再度組み立てる為に、文というものを

成立させる。赤ん坊は、言語のない世界で本能存在として生きている。この本能

的了解概念と結合した状態で一語文が覚えられる。例えば“マンマ”という一語

文としての言葉と、現実の行動、あるいはその想念を切り離すことはできない。

そこで母親が登場して、“マンマ”と言ってみなさいと言い、赤ん坊は母親を喜

ばす為に“マンマ”と言い、こうして行為から切り離された言語というものゝ所

有を知る。                               

 言葉が言霊といわれるのは、観念というものが生命の内部で生じた人の与り知

らぬ仕業であるからであり、同時に本能生命の意志、つまり摂理に恥じない心か

ら出たという自負があるからである。言霊とはまた観念が外に出て言葉となるこ

とである。観念を外に取り出すということは、しかしまた観念を生命から分離す

ることである。霊魂が自発的に外に出たのではなく、人が外に取り出したのであ

るならば、そこに取り出した意志というものがなければならない。その意志こそ

人の主体的意志である。観念を言葉にして取り出した意志とは所有の意志である。

それは言葉を自由に所有、支配できることであり、こゝに自由という観念が生じ、

主観が成立し、本能の存在運動から切り離された主体的自由の領域が出現する。

自由はこのように、後からかたちづくられるものであって、自由の領域の所有が

自由という概念の形成となる。自由の概念が主体の中心となる。従って、自由は

“私”という主観と等価である。

 自由という概念に於て、人間が永遠、無限に自足恒常的に生きるならば、自由

はただ単に自由と呼ばれる。しかしわれわれは生まれて、死ぬのであり、そのあ

いだも変異を免れない生物であるから、自由の本来的な意義である無制限性は、

こゝに制限を受けることになる。即ち、自由は時空の始まりと、時空の終わりを

考慮しなければならない。それはちょうど本能の四つの価値領域に上書きさせら

れることになる制約である。そこに上書きされるのは、所有、支配、権力、翻弄

の四つであり、自由は恒常的な自足性ではなく、何か対象に就いてのみ自由であ

るという制約を持つことになる。この対象制約性の更なる社会的制約性の表現が、

即ち意識化された成人の社会的理念である。しかし、最初には四つの概念のみが

ある。発達心理に於て、第一反抗期の主体の自立は、性器、肛門、尿器、口唇の

快と良をともなって、これらの器官を自由に扱うことによって為されるが、この

ときに為されるのが、自由の概念、即ち所有、支配、権力、翻弄の本能身体への                                    

 

 

tenp-gazo-1.jpg

 

⇒“治療の為の存在分析”(プリント)           

        P62とP63

 

 

              〈主体存在〉
  ┌──────┬──────┬┬────┐                     
                          ││                             
  │        意志│統覚        ││                             
  │                        ││                             
  │知覚    身体│定位    知覚││                             
  │                        ││                             
  │          感│情          ││                             
  │    ┌───┴───┐    ││                             
  │    │  我           ││  主観                       
  │    └───┬───┘    ││                             
  │        運動│統覚        ││                             
  │                        ││                             
  │感覚    身体│運動    感覚││                             
  │                        ││                             
  │          官│能          ││                             
  │                        ││                             
  └──────┴──────┴┴────┘                     
                              
       ※二重線の左が本能存在(身体)。右が主観(脳主体機能)である。
     
     ・主観は、言語記号の体系であり、概念に過ぎない。それは質量に付随する
     機能でもない。個体存在の認識我観は質量を持つ脳神経機能であるが、
     認識主観は質量のない言語であり、記号である。それらの概念は我観に
     に産出させる。それ故、主観は我観の内部に本来、位置する。
     主観は我観の屋上屋であり、砂上の楼閣である。主観は何ら身体に根を
     持たず、自らの汗の味を知らぬ、単なる概念である。しかしその金利生活は
     派手であり、豪勢である。その概念の資本力により己が身体をこき使う
     立場でいられるからである。即ち、主観は本能個体存在である身体を
     所有支配する。これが主観を本来の身体生理的位置から引き離して、上図
     のように版図を描かせる理由である。この版図をもっと真に迫らせるなら、
     球体の小さな中心核に身体として地球を置き、主観という太陽が、
     この地球中心核をはるか奥深くに飲み込んだ様を思い描くことができる。

 

 

植え込みによる主体意志の獲得であり、身体の主体的な自由運動の獲得である。

つまり、自由の概念を本能身体に於て、感情、官能化する作業を行なう。本能

身体にこうして新しい意志、そしてそれによる身体運動を学ばせるのである。

身体に据え付けた主体意志のその概念を、我観の理性に与えたものが、即ち、

四つの主体理念である。    

 右の図は主体の存在構造を示す。本能存在は所有の弁証法の自体として、その

まゝ保存される。右側の全体が主観である。主観は左側の本能身体の我観の図的

概念の能力を所有するとともに、我観に言語記号を産出させる。産出させた言語

記号を所有するものが主観である。但し、所有意志の表明は主観が本能に主体意

志を組み込む結果である。右図は次頁のような図としても理解しうる。    

 本能身体の実有に対して、主観は概念の体系に過ぎない。しかし、この概念の

体系が本能身体を覆って、所有、支配してしまう。   

 

 

tenp-gazo-2.jpg

                               

               〈主体存在〉           

            ┌──────────┐               

            │         │               

            │  ┌────────┼─┐             

            │ │        │ │             

            │ │         │ │           

            │ │    ┌──┐ │ │            

            │ │    │  A │ │ │           

            │ │    └──┘ │ │            

            └─┼────────┘ │            

              │          │       

              └──────────┘           

                

 

   ∴ Aは我観   Bは本能身体  Cは脳主体機能(主観)

   ※ AはBの平面にある。概念構成体に過ぎないCは風呂敷で包み込むようにAB平面を覆ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

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