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  第七章  空無

 

 空無は、人間の義務に目覚めた者だけが求めんとする審美的空間である。その空間は、存在義務、実存義務、あらゆる生存における関係を超脱したところの、対象と認識の対立を止揚した観照的全一者それ自体となりきった空間である。全一者であるからには、自己はそのとき被造物感情を抜け出ており、従って超越者もまた存在しない。全一者が無限的な自己の全貌を視るに当り、光と、空と地(水)の構成する地平線(水平線)でもって、空間の無限性と時間の永遠性を探り出す。全一者が自己を無限と永遠とに於いて把握する審美的な態度、これが空無における感情である。空無は全一者における自己自身への観照であり、自己自身への美的考察、美的感情、美的意志である。つまり空無は、精神における、関係を見据えてこれを統べ、秩序付け、愛化しようとする関係の闘争的自由ではなく、一切の関係義務を超出した、消極的自由における、精神の新たなる開示である。空無は自由性においてはかく消極的であるが、全一者として規定される限りは全能である。全能であることは、一切を統べ、秩序化できる力であることではなく、反対に、一切を消去する力としてあることである。複雑から単純に戻す力、複雑なものを越えて単純なものを見通すことのできる力、すべてのものを統べる力ではなく、それらのものが形成される以前の状態また形成された後崩壊して元の姿つまりそのものが無くなった状態を視る力、それが消去する力である。消去の力は、だから破壊の力である。破壊によって、存在する個別者諸々の本質を露わにすることができる。隠されていた本質を露わにする力は創造の力である。破壊と創造が根源的なものとして措定されていることが、空無の本質的規定である。従って、空無には積極的な性格が付与されることはない。つまり、関係が関係を呼び起こすような積極的な自由の関わりを持たない。ひとつのあるものを破壊して別のあるものを創造するという個別者の世界ではなく、その世界を根源的に規定する世界が空無である。本質を露わにする為に個別者を破壊し、破壊することによってその者の本質を真に創造する。従って空無は、美そのものの個体としての提示ではなく、審美的な空間であり、美の個性ではなく審美的な態度に止どまるものである。個別的なもののすべてに通底する普遍の美、それが空無である。個別者の本質を規定するもの、それが空無である。動的自由の愛の方向に対する静的自由の美の方向、それが空無である。空無は美の本質規定である。

 "それは霧のような世界であり、霧の世界の南方には光の世界があった"というエッダ(フィンランドを除く北欧4カ国に伝わる神話)の記述に、空無界の様子が仄(ほの)見える。霧の中に、彼方の風景が掻き消されていくという幻想的な無の経験、しかもその無は虚無の無ではなく、光があり、光がありながら確かに存在している筈の風景が、そこから先、掻き消えている。確かに個別的な諸々の存在があり、しかもそれらが見えず、広漠たる空無のうちに包摂されている。それは光の充溢として、存在を孕んだ、存在の原風景である。光に輝きながら、三次元の距離、即ち永遠の時間を予兆させながら、無限の空間が全一者として自己自身を認識する。ここでは空間は実体の開示であり、三次元のそれぞれの方向に予兆される時間は、知、情、意における精神の開示である。空間は肉であり、時間は霊である。霊の三次元のそれぞれの方向には、垂直方向に知が、水平の左右方向に情が、水平の前後方向に意がそれぞれ位置付けられる。しかし、それらのことは、予兆として空無の中に孕まれ、開示されるべく待機していると見なければならない。それ故、三つの時間性は、それぞれ主客の合一としての即自的な純粋目的的な、純粋意志、純粋理性、純粋感情である。純粋に目的的であることは、又、自由に目的的であることである。だから純粋意志は自由に於いて自由を求め、純粋理性は自由に於いて真理を求め、純粋感情は自由に於いて生命を求める。

 美意識、美的感情といわれるものの根源は空無にある。空無は全一者として破綻のない、美を意識する即自態である。無限にして永遠の美のよろこびである。空無の美はなによりも自然の中に現出し、これを認識する自己との、対立を止揚した全一者としての一致のよろこびである。実存の腐心に疲弊した自己が、無前提に生の肯定の境地に立つことのできる世界である。自己の霊と肉のすべてを挙げて生のよろこびに陶酔する。対立が解消され、万象が調和のうちにひとつになるところの美的恍惚である。

 生存義務、人間的義務を脱したところの、美の心地よい眩暈である。存在と認識の遮るもののない合体感である。空無の中に浸る者は、内部において無前提に生を肯定するが、空無を求めんとするその審美的態度は実存の苦汁故に求められるものである。その意味においては、空無は外部に前提を持っている。空無は愛の傷の癒しである。傷みの忘却である。実存の軋(きし)み、騒ぎからの一時的なる遮断である。大人びた母胎回帰である。甘美なる浮遊感である。汚れからの浄化である。煩わしさからの、離脱である。

 空無は、そこからあらゆる美の派生してくる、大洋である。ことごとくの美は、空無から流出変形して己が美を競う。崇高も優美も、幽玄も無垢も、侘びや寂びや破壊の美学も。しかし、美と芸術は峻別されなければならない。美は自他一如となる観照的全一者であり、芸術は対象を持つところの認識である。始めに観照を持つにしても、芸術は認識(芸術的認識)であり、それを表現して他者に伝える為の手段である。美はそれ自体が純粋な目的であるが、芸術はそれ自体は目的ではなく、手段としてのみ機能する。美はそれ自体で自足する意味であるが、芸術は意味を了解する為の手段である。

 美は対象と認識との一如となった経験であるが、芸術は対象と認識との、また自己と他者との一致を要請する行為である。美においては対象と認識との無条件的な互いへの帰入によって成立するものが、芸術においては言語(あるいは記号乃至は象徴)という条件下にのみ成立する。芸術は何よりも美のみを表現の目的とするものではなく、表現一般を目指すものとして美そのものとは峻別されなければならない。芸術表現は人間性全般に渉るものである。審美的空間と実存的空間は、同じ精神空間の作用の切り換えとして働くものである。芸術表現はだから、この二つの空間において単機能的に、あるいは複機能的、重合的に機能する。例えば、慈愛を表現するになお且つ美の様装を纏う広隆寺の弥勒菩薩像の如く。

 芸術の価値を判定するに、われわれはその作品が精神の広大な空間に至り着いているか否かで判断するように、美においても、美の極限である空無が、どれ程その個別的美に備わっているかどうかで判定する。美しいものは空無の刻印を帯びている。永遠的、無限的でなければどうしてわれわれを魅することができるだろう。霧に覆われた世界に光が射し込み、個別的なるものの姿が見え隠れする。空無の中から永遠性と無限性の刻印を帯びて、個別者としての形姿が現われはじめる。美の様々な範疇がそれぞれの目的を目指しはじめる。個体となることは、同時に、空間と時間を認識して時空のうちにおのが美的形姿を顕わにすることである。質量が決定されたとき、個体は自己の時間性が決定されるのを知る。空間の三軸は位置の決定であると同時に、意志と理性と感情のそれぞれの方向性であった。そしてそのそれぞれの方向に於いて、永遠と無限との刻印を帯びる限りにおいて、自己の無からの流出として認知できることにある。しかも純粋に観照的である限りに於いてである。観照的であり、空無からの流出として捉える眼である限り、全一的な相を取り落とすことはないのであるから、個性的美を通して空無の相に見入ることは可能である。その際、個性的美は観照的に成立している。例えば、野に咲く一輪の花に全宇宙の反映を観ることのできるとき、無限性と永遠性は、空無における全一感情に比して弱められてはいるが、少しも毀損はされていない。しかし、例えばある若き女性の性的魅力に吸引されることは、セクシュアルなものと結びついた美として感情されており、時間性の三軸の方向の感情の自由は保たれているが、理性は喪失し、意志は理性意志の自由を奪われる。又、例えばカントが、崇高について、絶対的全体性という理念の能力としての理性の介入によって、自然対象が感性によってはじめて崇高となりえるというとき、時間性は感情において欠損し、意志は生命(本能)意志の自由を奪われながら働く。芸術美としての崇高も又、我が国では垂迹図によって気高さとして表現せられているように、一般に、時間性の垂直軸である理性の方向において自由を強調する。これらの美は、空無からの流出、あるいは空無への指向であるには違いはないが、時間性のあるものを取り、他のものを取り落とすその程度に比例して、欠損的なる美として規定されねばならない。欠損的なる美は、全一者の弱められた個性ではなく、全一者の部分であるから、欠損的であることに比例して全一者の相貌を観ることはむずかしくなる。だからわれわれは、たとえ弱められた全一者であっても、一軸において強調し他軸を毀損した崇高よりも、全宇宙の反映を一身に宿す野の花の一輪を好むのである。真実の個体美は謙虚であり、己の美を強調しない。美が儚く、脆く見えるのは、ひとつにはこの為である。空無における全一感情はその時間性において、無拘束的に目的的たらねばならぬ。全一者はあらゆる関係目的を拭い去った超脱者である。だから時間性のそれぞれは無拘束的に、全能的(いかなる目的化をもすり抜けて自由目的的)に、純粋自由な機能それ自体であらねばならぬ。空無は、対象、即ち、自然と自己との全一者であり、自然なくして空無体験はない。

 審美的な態度は純粋観照の自然における在り方である。この意味において芸術美は純粋観照の対象ではなく、又空無からの流出ではなく、空無への指向として、空無の洗礼を受ける者として自然の前に、且つ空無の洗礼を受けた者として鑑賞者の前に佇んでいる。従ってわれわれは決して芸術自体を純粋観照の対象とするのではなく、芸術を通して純粋観照の在り方を学ぶのである。芸術美は純粋観照の在り方の表現として、われわれを全一者に導こうとする。芸術作品それ自体は、だから美ではない。芸術作品がそれ自体としての美を主張するときは、装飾美として作品が規定されるときである。人間は装飾美に於いて、自然と自己との対立的止揚における全一感情ではなく、自己が即自的に、ナルシスティックに、魔術的に変容された空間の中に演出されることを望むのである。従って、装飾美は、空無からの流出としての本来の美とは分離して在るべきものである。ゴッホやゴーギャンの絵画は、本来的に表現であること以外に、特に装飾的であることを意図的に持っている。特にゴッホは、アルル時代に、彼の絵が一般の家庭に何よりも装飾として壁に掛けられることを望んでいた。精神的理解はその後にやってくることを彼は信じたのである。装飾美は一般に、それが生活空間に適度に配置される場合は眼を楽しませ快適感をもたらすが、過多になるや否や人間を圧迫し、精神の空間を押し潰す。装飾美とはまずそのようなものである。芸術はだから、自己目的化するものではなく、手段としてのみ機能しなければならない。もっとも装飾美を備え持つことは何ら否認し去るべきことではない。芸術は多様な意味と美における、感情の内包されたものである。芸術については、ここでは余り多くのことを語るつもりはないが、ただ個々の美の理念(生命感情)をではなく、空無それ自体に即自的に迫ろうとするかに見えるフォンタナの切り込み絵画に言及しておく必要がある。フォンタナの切り込み絵画こそ、空無と結びつき、空無を開示せんとする芸術の理念そのものの開示である。われわれは、切り込まれた形態とそれらの画面上の配置の美しさによって画面に引き込まれながらも、その空隙のダイレクトであることに衝激するのである。その空隙に空無を呼び寄せんとするフォンタナの、純粋な熱意が伝わってくるようである。われわれはその空隙を通して、空無を志向する。その闇を通して光を求める。フォンタナの面目は切り込み絵画に在る。もちろん、われわれは、審美空間だけではなく、実存空間をそこに読み取ることも可能である。

 ジャクソン・ポロックのドリッピング絵画には、根源無、即ち、偶然の無意味の根底に降り立って、生命の始原的な発露に行き着こうとする意志がある。不安の無に対する眩暈の勝利とも形容すべき、粗暴にして光輝く生命の豊饒への意志である。それらの生命の圧倒的な群れは、肯定的には無垢の、否定的には盲目のそれらの性質を両価的に表出する。無垢は画面全体に行き渉る輝きの因子にあり、生命の盲目的豊饒は、偶然のなせるがままに滴らせた顔料の、のたうち、跳ね、飛び散る様に表現される。無垢はこの場合、それ自身の身体的延長としての即自的な無垢であり、対自を透過したところの審美的全一空間に連なる即自存在ではない。後者は美であるが、前者は美ではない。ポロックはこの無垢を、アクションとして、身体の遊び運動として、実際に画面上で行為することによっても生きたのである。無垢は身体的な遊びとしての存在である。それは偶然の無意味の根底に降り立って、その底のカオスから自然へと向かおうとする瞬間の、身体的即自性である。乳幼児期の子供において見られるところの、無我的身体的未分状態を、われわれは無垢と観じられるときがある。無垢は存在自体が遊びであり、われわれは彼に全一感情を投映して美を見い出す。しかし間違ってはならないのは、彼自身は審美感情となんら関係はせず、只われわれが彼を観じてそれを見い出すのである。乳幼児はむろん身体性に基づいた快感情は持つだろうが、美の意識は持ちえない。審美感情は、自己と自然との全一的となったところの美の意識である。従って、無垢には、無垢それ自身と審美的に観られた無垢とが存在する。前者は無意味の根底から個体エネルギーが現われ、身体的に遊びとして存在し、後者は無垢を選び取り、審美空間の中へと心情的に携え来るのである。遊びが審美的精神と結び付きうるのは、遊びのうちの無垢的要素を通じてであり、個我的衝動をもってしてではない。遊びは、個我的衝動と無我的身体的未分状態とにおいて行動されるのであり、後者の無垢的なるものは、青年期以前の自我揺籃期に特有のものであり、乳児から少年期に至るまで一貫して流れることを止めない胎内感情である。この胎内的一体感情が、遊びをして審美空間に親近させるのである。遊びにおける身体的なるものの世界との即自的な在り方が、空無における即自態と重なり合うのである。ポロックの無垢は、身体的に無意味の根底を引きずっているところで遊ばれ、審美的表現とは関わりあわない。従って、ポロックの場合には後に述べるロスコの場合と異なって、同じオール・オーバーの表現ではあるが、ロスコに於いては審美的空無が勢いを持つのに対して、根源的な無を背後に暗示するところの、無垢と盲目との実存的な生命表現を持つのである。ポロックの無垢としての遊びは、子供の遊びが偶然から自然へ向かう過程に発生するのと異なって、自然から偶然へと向かう過程に遊ぶのであるから、無垢の背後に、自然的生命を否定し去るかに見える盲目的な生命、混沌としての根源無を暗示せざるを得ないのである。

 遊びが審美的空間に連なる例として、良寛がある。

  風は清し月は冴やけしいざともに踊り明かさむ老いの名残りに

の歌で、清い風、冴え渡る月に、それぞれ全一者の流出を見て取り、もし彼が実際に踊っているなら、月と風の下、審美的空間の中で、本能的肉体的に、身体的未分として又個我的衝動をも顕わにして、子供の様に踊っているのである。しかし、それが歌の中で審美的に表現される場合には、われわれは踊り狂う良寛ではなく、心情的な無垢において昇華されている良寛をみることができる。

 ミケランジェロの未完の彫刻群は、まさに空間的表現であるといわねばならない。未完の奴隷においては、未だ彫られていない部分、即ち、形態が大理石の中に埋められたままになっている部分に、われわれの想像力による創造の完成が要請されているのである。われわれは、苦悩にゆがんだ表情を持つ頭部や、実存的反抗の意志において握りしめられた拳を、想像力によって創造しなければならない。奴隷像をこうした心的努力によって観るならば、その全体(審美的に見る限り)は、個別的なるものが、大理石という全一者に呑み込まれていくものとして、あるいは全一的美のイデアがいままさに生みだされてくるものとして観じることが可能となってくる。奴隷像は、こうしてその芸術美において、空無的な、美の根源的なものを開示するのである。ロンダニーニのピエタは、その垂直性によって気高きものの表現であると同時に、未完のマリアの表情に悲しみを、同じくイエスの表情に死してなお神意を伝えねばならぬ者として意志を、それぞれ読み取るのである。ミケランジェロは彼ら二人の表情を明瞭に刻み得なかった。ミケランジェロにもし意図というものがあったとすれば、<・・・・への仄めかし>であったろう。<・・・・>は個別的な美のイデアを懐妊する普遍的な美のイデア、つまり空無というものであらねばならない。またわれわれは、ミケランジェロの意図とは関係なしに、彫刻そのものを観ることを得るなら、像の左側に添えられて今まさにイエスを抱かんとしているかに見える、おそらくアリマタヤのヨセフのものであろう、二の腕から切断された右腕に、像全体を抱きうる力を見ることも可能である。この右腕は、像のバランスを決定する力であるとともに、全体を抱きうる力としての空無を予兆するのである。ロンダニーニのピエタは、審美的にも実存的にも、精神の全域を表現するところの完成度に達している。

 ベートーベンの交響曲は、概ね、あるひとつの概念を巡る感情の表出と理解される。例えば、第三番は英雄の概念の美的象徴化であり、第五番は運命の、第六番は自然の、第七番は生命(肉体)の、第九番は神の愛の、それである。もちろん各曲は、多様な意味内容と美の感情が内包せられているのであるが、概ねそれらは、内在に対する実存の外在者的見地(自己が関係するところの環境)から見た哲学である。ところが実存の内在者的な立場(自己)に立って、つまり単独者に収斂することによって、考察し感情せられる哲学を表現したものが、ピアノソナタと弦楽四重奏曲である。

 音楽は波調として震動としてその流れとして、時間性において規制せられている。従って音楽が喚起する感情、情緒によって、かつてわれわれがそれに似た感情を持ち得た風物によって空間イメージを描くことは可能であるが、それは常に曲の中の部分的イメージとしてでしかなく、曲全体を直接的に統一した空的に統一した空間として把握することは不可能である。音楽は、空間表現を手段として持たないからである。作曲者はわれわれに、直接的に空間を表示しない。視覚的イメージとしての空間を、従って鑑賞者は持ち得ることはない。しかし、芸術鑑賞の真の深さに達する者は、作品を舞台となぞらえるならば、舞台における演技者となっている筈である。即ち自己の肉体を舞台に投入する。音楽の場合には役作りは感情のみによってなされる。劇の筋、進行もまた感情によって構成される。演技者は、与えられた感情に基づいて、彼自らが、言葉と行為によって役を肉体化するのである。しかし、言葉と行為がたとえ表出されなくても、肉体に感情が真に充ち、言葉と行為が表出される寸前に止め置かれるとしても、もはや彼は十全に舞台上の義務を果たし得たのである。何故なら、この劇は観客を持つ舞台ではないのだから。彼一人の為にこの舞台が設けられたのだから。そして、それこそが芸術の役割とするものなのである。芸術は観客に供する前の、真に迫ったリハーサルである。それ故、芸術は、想像力と同じく、現実そのものが実在であるように、われわれの前にひとつの実在力として存在する。真の芸術はわれわれの前に実在であるが、哲学や宗教がそれ自体のために存在し、機能する為にあるのではなく、あくまでも実生活の為にのみその存在と機能が生かされるように、彼の本番は、あくまでもその実生活において架けられなければならない。従って、芸術に何か過度の期待、神秘を求めてはならないし、その内在的完結的価値に没入してはならない。つまり、芸術は、理性とともに、人間の至上物に奉りあげられてはならないのである。芸術は伝達の為の手段でしかない。美においても、実存においてもそうでなければならない。本番は実生活にある。さて、舞台装置は彼の環境である。出演者らは彼の世間社会である。観客は彼の所属する社会以外の全世界、全人類である。そして、劇空間とホール全体が、彼の精神と成すところの全空間を表示しているのである。音楽をこうして肉体化し得たとき、即ち感情が肉化し得たとき、そこに空間がイメージされ、実現されている。音楽は従って、感情の肉化として空間を持ち得るのである。音楽を真にその深さにおいて理解し得たとき、感情空間として肉体において生きることができる。それは例えば悲しみの感情を帯びた空間であり、崇高の感情を帯びた空間である。感情は肉に宿り、肉を揺がす。感情は肉を打ち震えさす。われわれは喜びの感激に、血湧き肉踊らせる。悲しみに打ちひしがれ、打ち萎れ、恐怖に身をすくませ、ちぢまらせる。その空間は音楽が直接的にもたらすのではなく、肉によって間接的に、肉を震源として開示されるのである。あらゆる芸術は、このように直接的間接的に時間と空間を持っている。その際、要となるものは常に感情であり、感情が震わす肉体である。表現において十全に成功した芸術とは、鑑賞者が作品において自己の肉として感じられ生きられるものでなければならない。その際もちろん、鑑賞者の肉体が生命感情において健全たり得なければならない。造形美術の絵画においてその空間と時間制を見るなら、平面であるにもかかわらず、われわれはそれを空間化して観るのである。描写の平面的、立体的を問わず、線的、マッス的を問わず、また抽象的、具体的を問わずにすべての平面絵画においてそのように観る。観ることはその深さにおいて肉体を投入することである。絵画は光の芸術であり、光をどのように捉えるかによって、その作者の個性と表現が決定される。ルノワールが線的なるものとマッス的なるものとの間で揺れ動いたのは、線とマッスの闘いにあるのではなく、ひとえに光の処理に悩んだ結果であった。光を形態の中に封じ込めようとする光の差別相ではなく、光が無差別に、オール・オーバーに物と空間の中へ流入していく姿こそルノワールの真面目なのである。そこでは、光が空間であり、空間が光である。光と物との関係も同じであり、光と物と空間は、不可分離の結合として実在である。ルノワールは、存在の真理性を、そのように捉えるのである。ルノワールはこのようにして、空間と物体の全一性に審美せんとするのであるが、シケイロスのような場合は反対に、物体が光に向かって自己を主張する。美は退潮し、実存が物体の力性の中に主張しはじめる。ルノワールの絵画は、光がマッスとしての女性に結びつくことによって健康的なエロスを表現する。われわれは描かれた光と女体に、瞬間に結びつく。結びつくのは、描かれた光と女体に、自己の肉体を投入し、同質化し得るからであり、同質化し得ない作品であるなら、失敗した作品であると言わねばならない。作品空間と同質化した肉体によって、われわれは感情を得るのである。肉体が感情することを通して、ここに時間を表出する。感情する肉体は常に時間と空間の両要素を持つ。芸術空間のみならず、生に於いてもっとも重要な要素は感情である。生きている間中われわれは感情しているのであり、無感情であるのは只眠っているときだけであると言わねばならない。抽象絵画において一例を挙げるなら、マーク・ロスコの”赤と赤の上の青”に見る場合、光は全画面において一様的均一的に有るものと概ね理解する。光はこの場合、全的に色彩の中に現われる。光は色彩として在る。やや縦長画面の中央を、上下の赤とほぼ同じ巾で横切る紫は、色彩としてよりむしろ強さとして存在し、赤の効果を高めるものとして在る。のみならず、上下に赤を切り離すことによって、赤と赤が互いに流入していき、結合にまで至らんとする力性を暗示するのである。もし周囲に残されたくすんだ地が取り払われれば、今度は中央の紫が赤を凌駕して自己を主張する筈である。このような微妙な釣合いにおいて、われわれは赤の空間の中に肉体を投入し、同質化するのである。そこで肉体は震える筈である。われわれは赤と一体になって、もっと言うなら赤い肉体そのものとなって膨張していくのである。肉体が膨張するその感情を捉えることによって、われわれは時間性を体得する。生き、動く肉体は、空間性であると共に、時間性である。生動する肉体、つまり行為である肉体は、常に感情の中に浸されているのであり、むしろ、肉体は、行為することによって感情を生み出していくのである。感情に繁がるものは思考である。思考と感情と肉体の綜合として、われわれは意識性を持つ。従って、意識として生きることは、空間と時間を認識しつつ生きることである。

 音楽は何よりも感情を喚起する。ところがベートーベンの後期の弦楽四重奏曲群は、感情の生命的(自然的)であることを抑制する(ここでは特にラ・サール弦楽四重奏団の演奏を念頭している)。その結果、理性的なるものと意志的(人為的)なるものが表面に浮かび上がってくる。ちょうどカントが哲学的思索を行っている場面を想い浮かべればよいだろう。人間が理性的意志である場合の感情の状態、それが後期の弦楽四重奏曲の感情を支配しているのである。しかし、むろんそれだけではない。音楽は、絵巻物や長編叙事詩と同じく、時間性において多様な展開を持つからである。例えば、後期の五曲のうちでもっとも穏やかであるヘ長調・作品一三五では、おおよそ次のような展開を持つ。

  第一楽章 悲しみと沈痛

  第二楽章 晴れやかさと軽快さ

  第三楽章 広がりと静寂

  第四楽章 高さと超脱

 しかし、各楽章がこのように性格的に異なった感情を与えられているのは、五曲のうちのこの最後の曲だけであり、残りの四曲は、概ね性格の対比はないと見るべきである。あるひとつの物性を投げ出す為に、各楽章は放射状的に、その物性目指して収斂しているかのようである。あるいは各楽章は、あるひとつの物性の様々な切断面を叙述しているかのようである。各楽章の性格の明瞭な対比が消え去ることは、時間的な展開を元々目指されていないということである。それは、あるひとつの様態かあるいはひとつの物性である。それが投げ出されてくる。それは、われわれがそれに躓かざるを得ないような何ものかである。それは、実存の感情が意志化されたところのオブジェクトとしてわれわれに投げ与えられる。これらの曲には、ベートーベンの苦悩力の大きさと実存の果てしない誠実さがある。われわれは作品一三五の最後の四重奏曲を除いて、これらの曲のその全体を成す本質においては、審美的空間の相の下では決して聴くことはないであろう。

 

空無

(了)

 

 

 

 

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