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後書

            

       愛という言葉は誰でも知っている。日本人なら愛という漢字でさえも誰でも書ける。

 

 諸事物を指示して客体化する言葉は、指示する当事者を主体として提示する。自らが拵えたのではない故に本来は所有できない自己身体を含めて、主体は森羅万象を所有、支配する。言葉を持つ限り人間は主体性を捨てることはあり得ない。しかし、主体性とは原罪である。罪とは自然に反するもののことである。命は宇宙の自ら然らしむるところの、調和の弁証法の営為に参画する存在以外のものではない。無制限性を求むる主体性は、この自然に反目しようとする動態にある。このとき主体性は未だ概念上に架設されたものである故に、罪行をリアルに産出しているのではない。主体性は無制限性の概念に留まるうちは、罪の現在進行形を営為するベクトルを産み出そうとするところの、またその悪のエネルギーを求心する原始点に足踏みする。この原罪であるうちに、主体性は内外から陶治されねばならない。陶治の方法は簡単である。真空に始まる宇宙の調和の法則に従えば済むことだ。真空はわれわれ生物の体のほとんどの体積を占める。真空以下の粒子は、この真空を環界として生き、われわれの体を保持している。ここに主体性などという無制限性の概念の入り込む余地など何処にあるか? 

しかし、われわれ人間という生物は、無制限性の概念を持ち、もはや、この放埓な概念を放擲することはできないならば、この無制限性に自然の原理、即ち“感謝・愛・善・美”の理念を与えて、無制限性を陶治しなければならない。自然をフローする文明は既に罪行の最中にある。文明の音、色、情報を含む人工物の故意に満ちた騒々しさは既にして罪である。われわれがこの罪を贖うには、“端楽”しかない。自分の欲得より以前に“種と自然”に対して、楽にすることを工夫することだ。文明とは“端楽”ことである。“端楽”という概念は、文明の在るべき姿のために生み出されたのである。悪は“心の亜流”であり、命の本然を生きるのではなく、単に己一身の欲得の追求に堕した姿である。彼は生きながら破滅している。自然は生物に有限の命を与えた。彼は自らの有限性、死・自己意識の消滅の前にうろたえるのだ。彼は自らの死を破壊しようとする。死の破壊、死の不可能的な突破という不条理な意志を無制限性に与えんとする。この工作が悪となる。この“成らず者”、生命の亜流どもの処遇を適切に行なえないなら、文明は文闇となる。実際、われわれは闇に突進している。世界は、地球は、極悪の国を越えた国自体をも破壊しようとする暴力組織に牛耳られ侵されているし、地域的な大悪と、個々の小悪が至る所に浸潤して、壊疽を起こしつつある。この状況を打破するに、只一つの教えで事足りる。“人を労り、家族を愛し、自然の恵み・慈しみに感謝する”ことである。これ程、簡単なことはない。

 

序文に記したように、“然”は自然の深奥、その原理を余すところなく表わしている。

良寛の

    風は清し月は冴やけしいざともに踊り明かさむ老いの名残りに

西行の

願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ

芭蕉の

    旅に病んで夢は枯野を駆け巡る

また、ミケランジェロの序文で挙げた彫刻も、この原理を敷衍する。芸術の究極は、文明を払拭した、存在の生物性の悟達にある。その姿は、自然の前に佇んで感得に専心している。感じ得たものを表現したものは文明化した姿である。芸術は文明のベールを掛けた自然である。人は芸術を観照するが、真の観照に入るには、現実にせよ、想像力によるにせよ、自らが自然の中に分け入って行かねばならない。

 理想社会では死による悟達は、子供の時分から成される。死こそは生の覚醒である。死を練習し、死を覚悟し、その先には、自由に眩暈し、無に潰え去る主体性の存在性のぎこちなさを払拭した、真の生物性の生死流転する自然界の調和機構(調和の弁証法)が見えて来るものでなければならない。

 

 

死の問題は存在の要である。主体性としての人間は自由=無制限性である故に、“死という有限性“が立ちはだかる。食の機能、家族の機能は生が死に移行し、死が生に移行する代謝である。本能の生物では死は調和の弁証法であり、文明をもって比喩的に言えば、端楽ことに他ならない。死はパニックになるものではなく、慫慂(しょうよう)たる義務の履行であり、また義務の移行である。理想の教育では死の処理を適切に行なえる能力が、全教育期間に亙って万全に付与されるものでなければならない。

善は悪巧みに対しては先手必勝でなければならない。

善は悪をつぶす力とならねばならない。われわれのイデアの(本尊)は仁王(愛の怒りの王)である。キリスト、リンカーン、ガンジー、ケネディ、それに「300人委員会」の著者・コールマンは真の勇者である。彼らはわれらのイデアの生き写しである。われらは既に確固としたイデアを載いている。イデアの核に理想社会を具現しさへすれば、それで良い。

 

 

 この書は序で述べたように、理想社会を実現する為に書かれた。理想社会は自覚された個人によってのみ担うことができる。自覚する個人とは、“感謝・愛・善・美”の意志を確たるものとして身に着けた人間である。そのリアルな姿はイエスやシャカらである。彼らを聖人に祭り上げているうちは、われわれに理想社会は遠い。理想社会構築の為には、例外を置くことなく、万人がイエスやシャカに成り遂げねばならない。イエスやシャカに成ったとて、本能の価値に純粋に拠って立つ草木や動物には決して及ぶものではない。われわれは、主体性あることそれ自体によって、既に堕ちた存在なのである。従って、真の師、実(まこと)のイデアは草木、動物をはじめ人類を除いた森羅万象である。人間の寿命がもし200才であるならば、ほんの一握りを除いて、全員が認知症になる命運となるだろう。われわれの高貴さの程度というものは草木の足下にも及ばないと知るべし。

理想社会を実現する機構をここに発足する。資質ある人間と資本を求める。実現機構は理想社会の設計図を浄書した後、この社会、つまり資本主義社会の枠組の中から実現への手立てに入っていくだろう。この社会に既に織られている経糸緯糸の織物を利用する。われわれは巧妙に身に纏う悪知恵を見逃すことなく、これに照準を合わせ、善知識を放射して染め直す。我の後に続く者は来たれ!

 

    この研究は有史以来の人類文明全般に負っている。しかし、特にエミール・クレペンと米国のてんかん研究の、細部に至る臨床観察に負う。

 

 

 

 

われわれはこの書によって“文明の究極”の“始まり”に立った。

 

 

 

 

 

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