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                心身症、行動精神病  第一回入門講座 

                            病理編   3 
             
  週2〜3回配信   1998.11.31.    通しNo.7       読者数 261 人

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        目次       行動精神病          
             行動精神病主体の対社会力学
             発症力学と代償行動、結果としての身体疾患
                                        
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                 行動精神病
                                
      

            行動精神病主体の対社会力学



⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-6.htm}
           〈価値不全症候群の各存在度〉 


 心身症が(+・−)域の主体度に発病するのに対して、行動精神病は(−・
+)域の主体度に発病します。この主体度に於て、縦軸の意志、及び運動統覚
の判断尺度、即ち価値の自由度は、(−)に、つまり不自由に転落しています。
 彼に於ては、存在することが呪われたものとなるので、この呪いを一瞬でも
救済する為に、刹那的な良及び快刺激を求めます。この行動に赴くことによっ
て、根本情態域への転落を食い止めています。               
 

 上のことから、行動精神病主体は精神病主体と同じく、“愛された”体験を
持たないか、希薄であると言えるのです。彼には、心身症主体のような内的な
”調和の弁証法”の強化された信仰が欠落しています。これに対して心身症で
は、内屈してしまうとはいえ、「怒り」という意志の力が維持されています。
 しかし、行動精神病では意志の力が(−)域の不自由に転落して、”人を愛
する”という意志が欠落しているのです。


 彼が精神病に落ち込まないのは、ようやく現実の良と快刺激を求めることが
できるからです。言い換えれば、恒久的な人との愛の繋がりに想い致せずに、
”刹那的今”の良、快刺激で保っている生です。
 人の生は”倣う=習う”ものです。自然の中で生きれば自然に倣いますが、
愛なき状況に生きれば愛なきことを倣い、愛の意志は涵養されません。

        ∴”倣う=習う”:”学ぶ”ことも”真似る”ことから来ています。


 (−・+)域の「呪い」に転落している行動精神病主体が這い上がろうとし
ている理想状態では、”愛のまったき意志が充たされている”ことを仮想され
ていますが、いま彼は人を愛する気概に欠いています。
 現実の良、快刺激を貪る行動は、その愛の意志が欠落してつくられた深淵の
深さに比例しています。


 自らの中に持つこの暗い深淵を逃れんとする切羽詰った行動は、彼が自由損
傷症候群を並持しているのでない限り、従って、自由拡張症候群を並持してい
れば、第三者にある種の力強さを観察させます。この力強さは、生命の本来性
が阻害されている「呪い」を持つ者が発散する”妖気”です。


 いま、自由拡張症候群の色付けを拭い去るなら、行動精神病主体は異世界に
投げ込まれて戸惑いながら、先に進もうか、後に戻ろうかと思案に暮れている
様態が伺われます。
 そのとき、彼らに接する第三者は、「共感性」と「自虐性」を見るでしょう。
共感性は、その生が本来のものに向かい得たなら、豊かな生命活動になるので
はないか、という予感を与えます。しかし、もうひとつの自虐性には、生命の
安定から遠離(とおざか)ろうとする刹那性の”炎”に身を焦がす脆さが見え
ます。それが心身症主体とは異なった、行動精神病主体の「行動化」に見える
二律性なのです。


 前者の場合には、“愛さねばならない”という万人共有の摂理が奏でられて
います。しかし、一方の自虐性には、生命への失望が滲み出て、もしその力の
方向が転じられれば、対社会的反行動に向かうのではないかという危惧を抱か
せるのです。この危惧は自由拡張症候群や自由損傷症候群との複合症候群に至
った場合には、という条件付きのものです。

         
 この危惧は行動精神病単症型に留まるならば、危惧のまゝに終わるものです。
しかし、摂理価値を虐げて生きる資本主義社会の波に揉まれ続けるならば、行
動精神病が他の症候群に複合して、社会への反抗という事態に立ち至る可能性
が留保されます。



 精神主体性には複合症候群への罹患はもちろんあり得ません。しかし、仮想
主体性に浮遊する行動精神病主体では活発な複合症候群への罹患傾向が認めら
れます。複合症候群への傾向を強めると、次項で述べるように、「代償行動」
が対社会、対他者への、反抗、敵意、隷属という歪んだ情念に変質します。 



 「呪い」の主体度は、精神主体性では、”悔やみ、切なさ、惜しみ、寂しさ”
であるが、自由拡張症候群では、”恨み、憎しみ、妬み、嫌う”の敵意に変質
し、自由損傷症候群(通常神経症)では、”わがまま”という自己主体性価値
に立脚します。価値不全症候群の中では、唯一行動精神病だけが拡張と損傷の
両症候群と複合して、自己をそこで変質させ、敵意や反抗や服従に身を替える
ことができるのです。
 これが、行動精神病主体の対社会、対他者「行動化」の力学が孕む情念です。



⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-8.htm}
           <精神主体性の存在度>

⇒http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/psycho.htm}
 {精神病理学}〈自由拡張症候群〉〈虚偽症候群〉〈狂気症候群〉
          〈判断停止症候群〉〈根本情態性遮蔽症候群〉
       注:〈〉カッコ付き検索。

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-21.htm}
                   〈自由拡張症候群の存在度〉 
                      〈自由損傷症候群の偽自律の存在度〉



 価値不全症候群の中では唯一、代償行動、また複合症候群として対社会的行
動化を行なう行動精神病は、全価値不全症候群主体の「対社会断罪」を一身に
背負うかのようです。 
 しかし、後に述べるように、これは正義の断罪の仮面を被った、拡張と損傷
の両症候群の主謀によるのです。摂理価値は変質するものでは決してあり得な
いからです。






                                      
                                      
         発症力学と代償行動、結果としての身体疾患



⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-4.htm}
            〈精神疾患の発症力学〉

⇒{http://www.dokidoki.ne.jp/home2/planetx/tenp-35.htm
                       〈行動精神病の症状〉


 行動精神病の症状は、一般には「代償行動」といわれ、”本能の存在の四時
空の意義を負って”行動化されます。その良、快刺激をもたらす対象物によっ
て、喪われゆく摂理価値の備給を行なうのです。


 代償行動のひとつである「情愛行動」によって、その情愛関係が定着恒常化
に成功すると、その情愛行動そのものゝ代償性、またその他の代償行動も残り
ますが、その情愛の深さに比例して、心理的な安定が得られます。しかし、彼
の直接的病原である扶養者や、現在の情愛対象を含む、この社会そのものゝ本
質が「価値不全」を呈しているので、完治ということにはほど遠いものです。


 この心理的不安定は、彼が精神主体性に成り得たとしても常に襲い来るもの
です。資本主義社会では、完全な精神主体性はまず不可能です。完全な精神主
体性を生み出すには、それによって生命を負っているということが実感されて
いるような、自然との弁証法的調和生活が基本に於て為されていることが必要
なのです。


 次講の【自由拡張症候群】で展開されることになりますが、物質文明それ自
体は「価値中立」であり得ます。但し、その為には存在する全個人の存在態様
が精神主体性であることが前提となります。精神主体性の下では物質文明の価
値中立は、自然生命に於て生命の基礎を確認する作業を怠らないことによって
可能となるのです。



 生命は自然に由来します。そして自然に還り行く存在です。これを日々、確
認できることの他に生命の安定はあり得ません。コンクリートとアスファルト
の人工原が涯なく続くビルの屋上で、座禅を組んだところで、何の自己”放下”
の結果も得られないでしょう。



 よしや、地球が人間の乱暴狼藉の果てに砂漠化したとて、その砂漠とスモッ
グに煙る大空は、コンクリートとアスファルトの人工原とは比較にならない
《自然》を私達に恵むはずです。生命の覆いのない姿は、自然との物理的現実
的対話によってのみ確認できるのです。《生命は自然に負う》ことを覚(さと)
る存在が、精神主体性です。



 《存在は自然という環界の機能に過ぎない》ことを知り、そのように生きる
ことが自然存在の弁証法であり、調和の弁証法です。私達人間はかつて地球外
生物に遺伝子操作を受けて生み出された生物である、という説があります。も
しそれが事実であったにしても、私達の肉体と心は自然という素材から造られ
たもので、素性は何処までも《自然》にあるのです。


      ∴生み出された生物:この説の科学的基盤のひとつは、日本原住民と
          英国原住民の間の遺伝子間距離は、アフリカの同じ森に棲むチン
          パンジー個体間の遺伝子間距離よりも、遥かに近いというもので
          す。


 都市生活に於ては自然と対極の生活しかあり得ません。摂理主体性にとって
は、都市生活に於けるその対人間生活は、本能の個体度の健全な全域性を超過
した「怒り」や「呪い」や「根本情態性」の主体度の発動が要請されます。


 自然に於ては、そこには恣意的功利であるものは何もないので、人は(+・
+)域の幸福だけが生活のすべてである、などとは夢にも思うことはありませ
ん。自然生活は主体度の全域性に於て幸福なのです。そこには原罪以外の罪性
はありません。


  翻って、人間社会では自由拡張症候群、及び自由損傷症候群の罪に満ち々ち
ています。こゝでは価値不全症候群のみならず、精神主体性もまた、”本能世
界での条理のある怒り”ではなく、”不条理な怒り”に於て身も心も磨り減ら
すのです。 


 資本主義的世界は、本質的に価値不全の世界であるので、行動精神病の「呪
い」は持続していきます。
 行動精神病主体の欠落した調和意志は自然に由来しているので、自然から備
給される必要があるのです。自然に由来する調和意志は、もっともよく自然経
済の中で育まれます。土を耕すのはそれに準じます。


 行動精神病主体の「呪い」は、”存在の本質である摂理それ自体が功利世界
に向ける呪い”であるので、「代償行動」は資本主義的功利世界に在るかぎり、
タンタロス的永遠の行動となるでしょう。彼は代償によって、一過的、幻影的
な(+・+)域を絶えず追い求め続けねばならないのです。

    ∴タンタロス:ギリシャ神話で、喉の乾きに苦しめられながら、
                笊で水を掬って飲む、という行為を罰として与えられた人物。

                    
 「愛情遮断症候群(施設症候群)」にみられる「身体を揺する」動作は、官
能代償型の「多動」に相当します。座り込んでその動作が為される場合は、性
愛を求める「自慰」であることがあるかも知れません。
 幼児の場合のこの自慰は、先自由意志の「身体所有」の試み、及び、神経症
の「弄精」との区別が必要です。
 愛情遮断症候群では、心身症による「不眠」もみられ、夜中に覚醒し、身体
を揺するとともに、頭を繰り返しモノにぶつけたりします。


 成人の自慰に於ては、「純粋な肉欲」が空想されている場合がそれで、自由
拡張症候群のひとつの「判断停止症候群」のそれ、また同じ症候群が「性倒錯
症」に複合した場合の「ナルシシズム(自己性愛)」のそれ、また自由損傷症
候群のそれと区別されます。
  自慰の伴わない「白昼夢」に於て「情愛」の結合を空想される場合もありま
す。


 「情愛」、「性愛」は現実の存在を対象としたもので、行動精神病の場合は、
純粋な、というのは本能に基づいた深い関係を求めるが、本来性を以って展開
される家族の本能に基づく人生のヴィジョンに導かれての行動ではありません。
俗に言えば「行き連れの関係」で、金銭授受のある関係であっても、「深い衝
動的愛」を伴なっている場合もあるでしょう。


 もしその関係が結婚に至っても”愛する”という能動性を欠き、”愛される”
受動性を先行させるので、自由拡張症候群のようには自らの浮気はありません
が、相手が浮気した場合は論外としても、愛のない態度には敏感に反応して、
破綻に導くことがあります。


 「徘徊」は、盛り場その他、人の群れる場所、または人の閑散とした場所で
あっても、人との社会的出逢いを期待します。存在的な温かみを求めているの
です。じっとしていない「多動」傾向、また家の中、施設の中を「彷徨(うろ)
つく」のも徘徊と同じです。徘徊と多動は、物理的な行動範囲の相違で、物理
的制約が多い幼児には街中への遠出は無理でしょう。


 「放浪」は、風土、風俗の中に人情を求めて流離(さすら)うものです。六
歳児が日本の果てを旅することもあります。放浪は「家出」に端を発すること
が多いでしょう。若年者の出奔は、徘徊と同様に都市に於て自由拡張症候群の
歯牙に掛かることがあるので注意を要するでしょう。


 人情に出逢う筈の放浪が、都市では価値不全を強める結果に至ることが間々
あります。その結果、「道徳倒錯」に至り、ピストルを奪い、強盗殺人を重ね
た例(もう20年位前のことになるのかも知れません)を私達は知っています。
“人を見たら泥棒と思え”というこの社会は、未成年者を狂気(道徳倒錯は自
由拡張症候群を複合する)に仕立て上げることのできる社会です。 


 休息の領野では、成人の場合「アルコール依存」、「ニコチン依存」に、
「薬物」の「シンナー依存」、「有機溶剤依存」、「覚醒剤依存」、「麻薬依
存」などの精神的身体的な依存症を形成します。アルコール、シンナー、有機
溶剤、覚醒剤は精神のタガを外したり、妄想と幻覚を起こしたりして非社会行
為や犯罪を起こすに至ることがあります。アルコール、シンナー、有機溶剤に
ついては脳を破壊して廃人化する危険性も考慮して置かねばなりません。


 アルコールはほんの少しなら”百薬の長”だと思えますが、過ぎれば鬱状態
を引き起こすなど害ばかりです。ニコチンにも頭脳明晰効果が認められますが、
免疫機能を破壊するチャンピオンでしょう。麻薬(麻酔)系ではモルヒネはガ
ンの痛みを緩和するために、中毒にならない程度を処方する方法が確立されて
いて、これも効果を認めることができます。


 余談になりますが、ブラジル原産で、産地では食用にしているアガリクスと
いう茸は、服用し続けるとモルヒネよりも鎮痛効果があるということを聞いて
います。また産地では成人病が非常に少ないということです。日本では現地の
日本人がこの情報をもたらして研究が開始されたようです。
 とくにガンに対しては、マウスの投与実験で90%の全治率があったという
ことです。猪苓マイ茸もアガリクス茸と同程度に迫る治癒率があり、アガリク
スに較べるとかなり廉価です。いずれも煎じて飲むのがもっとも効果があるよ
うです。他の茸類では椎茸が50%の全治率となっています。


 モルヒネの抽出前の状態は、ケシの実から採る乳液を粉末にした阿片ですが、
この産地では中毒になって痩せこけてしまった男性が多数存在することを見逃
せません。またイヌイット(エスキモー)に物質文明が入って、アルコール中
毒が多数発生していることゝ共に、資本主義の是正を必要とする問題です。


 南米のインディオには、やはり麻薬系のコカインの原料となるコカの葉を噛
む習慣がありますが、精製しないこの用法には害は少ないのかも知れません。
コカの栽培も現実では資本主義に乗って大規模になっているようで、ケシとと
もに産地の密売組織が暗躍しており、その豊富な資金で南米の幾つかの政府と
対抗できる武力を用意しているようです。主な密売先の先進国に巣喰う密売組
織ともども、全世界一丸となって根絶しなければならない問題です。貨幣の流
通が一切無い、資本主義に取って代わる新しい社会が必要とされるのです。

 
 「過食」の弊害はもう言うまでもないでしょう。「糖尿病」の罹患は、失明、
腎不全、動脈硬化などを引き起こす危険性があります。過食から来るこの栄養
過多によるものは「インシュリン非依存型」で、これとは別に、小学生でも罹
患する「インシュリン依存型」と呼ばれる、肥満に無関係にインシュリンホル
モンが不足して生じる、明きらかに「心身症因」である糖尿病が増えてきてい
ます。これは免疫異常によって、膵臓のランゲルハンス島という部位のβ細胞
が破壊されて起きることが確認されています。現在のところでは、この型は全
体の10%程度を占めているようです。



 「性愛」や「自慰」も過ぎれば身体を損います。行動精神病の「代償行動」
一般はモノを通した「間接的自己破壊」を行なう、と言ってよいでしょう。  


   
 「指しゃぶり」は、母に抱かれて母乳を飲む代償として乳幼児が行なうもの
で、自由意志を身体に組み込むために行なわれる口腔刺激とはことなり、こゝ
では唾液が飲まれます。