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序文

 

理想社会構築の為に、この研究は成された。理想社会の原理がここに顕にされたが、理想社会論及び理想社会推移論の追上梓が待たれるのは順序である。

種はここに蒔かれた。しかれども、この新種がわれわれの現行の資本主義土壌にしっかり根付き、芽生(めぶ)く為の土壌改良が少しく必要である。予定の大地のそこここにスキを入れ、その穴に肥料を仕込んで置かねばならない。         

一、赤ん坊が最高の高給取りになる。これが理想社会の中心の礎となる。

一、一日四時間労働となる。                                  

一、住居は最低百m四方の敷地に、森と自給用田畑と庭園が備えられる。

一、国家は消滅し、国民有国家となる。                                                

一、法には只義務のみが定められ、権利は消滅する。

一、三権の分立は消滅する。行政のみが存し、司法、立法は行政府に吸収され、消滅する。                                                                          

一、教育は生命の本義を立てることを使命とし、この本義を由とする文明の為に、知識と技術と体力を育成する。  

一、経済は本来の意義である「国を経巡って民を済度する」理念が屋台骨となる。貨幣は消費マネーの配分だけで動く。資本や金融や流通などの資本主義経済は消滅する。

一、原始文明から、高度物質、機械文明に至る段階の幾つかを設定して、それぞれの生活環境を自由に選んで居住生活できるようになる。

一、既存宗教は消滅する。風俗から切り離された本質としての宗教は、純粋な生命の本義、即ち“感謝・愛・善・美”の意志を涵養するものとして、人類文明社会全体を覆い、浸透すること隅々に至るものとなる。教育、マスメディアを通して各人の精神を常に覚醒する。

 

序1

以上を礎として、この骨組に少しく肉付けを呈示する。騒音的大衆芸術、騒音的レジャーは自ずと消滅する。ベートーベンのような音楽、ゴッホのような絵画は理想社会の堅固な土固めとして残るであろうが、真性芸術一般は、反骨精神の重荷を解かれて、コルトレーンのマイ・フェイバリット・シングスやインドのシタール音楽の幾つかのような宇宙的調和を表現するものが範化するであろう。しかしまた、生の純粋な発動を表現する、ビゼーのシンフォニー第一番全曲を嚆矢とする芸術群も必要である。ビゼーに続くのは、シューマンのシンフォニー第一番“春”、宮城道雄“春の海”、メンデルスゾーン“イタリア”、ドボルザーク“新世界から”、ストラヴィンスキー“春の祭典”である。加えてベートーベンの最初期のシンフォニーとヴィオリンソナタ“春”などは、パートでも良い。この世に光を見るその最初の感動を伝えることが勘要である。上に述べた三層の精神境地をひとつに凝縮させた、ミケランジェロの最初の作品である木彫の“サント・スピリト聖堂の磔刑像”と、最後の作品である“ロンダニーニのピエタ”は人類の胸底深く納めて措かねばならない。納めるの“納”は“糸の内”に込めおかれるような得難い境地であり、糸は幽玄の字に表されるように、静寂に座して自己の裡に意力を集中することによってのみ覚意されるような、巨きな時空からそのエッセンスを探し回らねば摑めない境地である。芸術は、それ故義務教育では中心のカリキュラムである哲学と宗教、及び自然探求と並ぶ「意志課程」の四つ目の科目となる。諸科はすべて、この意志課程の下に、恰も“玄”の字のように吊り下げられる。

 

一人当たり、百平方メートルの居住敷地を配分すれば、地球人口の適正値が自ずと算定され、地球人口は飛躍的に圧縮される。

交通は植物オイルや植物発酵のアルコール内燃機関を初期には使うだろうが、既に特許が取得されているようである宇宙エネルギー使用の内燃機関が、直ぐにとって替わるだろう。更にUFOの技術も開発されているようなので、近い将来はこれが大衆的交通機関となるだろう。こうした有用な技術は、資本主義社会では様々な私的投資の企業体、特に、300人委員会(後書を参照)に関連するその具体的な形態である企業結社が、私利私欲の為に実現を阻んでいるものである。

破産や技術の遅れなどの競争原理による敗者を生み出すことはない全体責任で機能する理想社会では、技術革新は破竹の勢いを示すだろう。しかも、予め、念入りに環境汚染のチェックができる。

軍備は不要であり、警察力と司法は僅かに残存するが、立法は行政の中に研究立案部署を置くことで替えられる。法律は、真理は唯一つの原則に基づいて、衆議一致して定められる。行政府は何ら権力ではない。行政は国民の生活の安寧を図る生産と配分の調整機関であり、国民を宰配するのではない。行政は国民に対するフィードバック装置である。国民は行政に直截意見を述べることができる。こうした多くの見解が行政の調整能力を円滑にする。“三人寄れば文殊の知恵”の格言が国民有国家の定義であり、理想社会の推進力である。

過剰な企業間競争、商品の開発、売り込みにしのぎを削った挙句の、スパイ、ワイロ、接待、独占的圧力、形振り構わぬ広告、その他の余計な出費はすべて、理想文明では効果的な発展に回すことができる。

子供たちの教育の為に、特に日本では要らぬ出費をしている。しかし教育では、何よりも、競争という不要な悪が無くなる。テストは適職の適性を見い出す為にのみなされる。理想社会では生まれた時点で全員が公務員である。自己教育という子供たちの仕事は、次世代を引き継ぐその助走なれば、生まれた時点から給料は支払われる。但し、使途は少ないので実支給額はそれに見合うだけのものである。

人参を、有機産と化成産のものを擂り較べてみれば一目瞭然である。30分置いて、その色と味を較べることだ。農薬は有機農薬で充分事足りる理想社会では、有機施肥の作物だけがショツプに並ぶ。電力は、風力、波力、水力、太陽光、水素、植物オイルなどの無公害発電が主力になる。風力、水力、太陽光利用は、大規模と小規模を工夫して、これは景観を犠牲にすることになるのは致し方ない。余力ができれば水力などは地下に設置できる。軌道上太陽光発電による地上伝送システムは、理想社会では直ぐに達成されるだろう。

廃棄物処理技術は、既に日本で開発された技術だけでもほぼ完全無汚染で達成できる。

夜勤、危険を伴う職種などは勤務時間が通常職より少ないのは当然である。

消費マネーは、おそらく多分に配分され、各自、余った手持ちは有効期限末に無効化する。使用マネーは、文明度に応じて電子のこともあれば現物のこともある。

どのような文明度圏であれ、居住環境には自然が、野生を感じられる最低限は維持されている。ストレスで心身を狂わすことはない。私は今、樹林の向こうに海を見ている。その水平線の上に蒼穹がある。リスや小鳥が水を飲みにやってくるのを楽しめる。適度に音楽を聴き、読書をし、家の内外を整え、また室内外の植物の水遣りや手入れを、春からは少し農作業をし、林間散歩をし、海を見に行きと、物質文明に大してよりかからずとも日々楽しめる。自然との交歓の間に、文明維持の義務を果たす程度で良いのだ、理想社会では。

自己身体を所有できないのと同じに、土地もまた所有できない。有用家畜は自然生態にほぼ近い状態でのみ飼育しても良い。野生生物は自然生態が可能な地域に棲息できるようにする。

ペットや番犬は動物虐待である。飼うことは食の手段を飼い主が握ることで動物の個体的自由を奪う。こうして世話を焼くことで飼い主はペットに甘える。甘えは自由損傷症候群の居直りである。番犬は人が人と敵対するところの防御手段である。園芸や農業に於いても同じ現象が展開する。ここでも化成肥料や化成農薬で虐待しつつ、世話を焼くことで両者の個体性及び主体性が無し崩しとなる。酪農や園芸、農業は最大限の野生を配慮するという条件に於いて存続が許される。

パチンコと同じように喧しいテレビやラジオは、沖縄の有線テレビで放映する島と水平線の見はるかせる渚の映像に、哀愁を誘う女声琉球民謡が流れる番組を手本にするようになる。

 

理想という概念は、文明という条件の下で成立している。文明は手当てを施さなければ、生きる目的、生命の本義を逸脱し、主体の無制限の自由に突っ走ってしまうからである。天然自然の生物であれば、そのまま然るべく生きられる。言葉を操り、道具を用い、社会が文明の概念で結合するとき、ここに始めて生の目的に関しての理想概念が生じてくる。生命の本義とは命に先天的に付与された意志のことである。宗教はこの生命意志を文明のために涵養する。生命意志こそは調和の具現力である。この意志を駆逐する精神構造が人間にはある。調和からの逸脱こそ人間精神の病理である。たとえば“働く”ということは調和を壊すことである。“働く”は資本主義的な主体の自由の具現である。”はたらく”の原義は“端楽”であり、端を楽にすることにある。資本主義的労働は、これを見事に巧妙にスリ抜けて、自らの為にのみ働く。端楽という言葉が生じたのは、先天的本能の生存活動に余剰して、資本主義的物質文明の労働が起こったとき、生命に調和の危機が芽ざしたその当初であった。資本主義的営為にどっぷり漬かった今では、労働を相対化する生命の調和的営為の記憶、その余韻は薄れて、誰も他者を顧ない労働の反調和行為・意志の不条理を認識できなくなった。ダルマ(法)の源語はテマであり、その原義は手間である。手間はドイツ語のテーマ、英語のシェマであり、文明の規律・法である。手間隙掛ける・手の間で支え保つなどの意味が手間にある。共に文明の営みそのことを言い表していると同時に、文明の姿勢・意志、つまり道徳の定めである。道徳は物質・技術・知識の支配方法、所有方法である。道徳の徳は命、道は法である。

 

序2

 文明は波及域の全体の力である。物質的、技術的、知識的に、専門分化して互いに支え合い、連携し合うことで成立する。従って文明を維持するのはどのような社会であっても、その全体である。達成された理想社会では、個人は端楽思想(調和意志)をもって文明維持に積極的に関与している限り、即ち故意ではなく過失によって社会に物的、人的損害を与えたとしても、彼は責任を負わない。理想社会ではあらゆる責任は全体が共同で負うのである。理想社会でも偶発的な例外はあるであろう。もし、その損失事故が故意に行なわれたなら、彼は罪を問われる。失われたものに対しての「つぐない」という観念は何の意義も発生しない。「罪を問う」というのは「罪を知る」ということであり、本人が生命意志である“感謝・愛・善・美”の深いところに到達すればこれは達成される。「感謝・愛・善・美」の四つの意志は、生命の意志を文明に翻案したものである。生命の本義といい、生命意志といい、調和意志と言うは、自分で拵えたのでない身体に先天的に付与された生の目的力である。いま、感謝とは何かを問おう。感謝とは和語で恵みのことである。あなたが秋刀魚を食べるこの労働こそは、自然主義社会(原始的、文明的を問わず理想社会のこと)では端楽原理が働いている。あなたの身体は秋刀魚の蓄積に他ならず、秋刀魚で出来た身体を維持する為に秋刀魚を食らう。これはあなたという身体を舞台にした秋刀魚の自力循環である。あなたの身体はまた、水も空気も循環させている。この循環させる機能があなたという個体の意義であり、この意義の達成の管理を任されているのが、他ならぬあなたという“個我”の意識である。人間はこの個我、言い換えれば“本能的自我”の上に概念的に主体的な“自己”を措定したが、資本主義ではこの主体は独走する。自然主義では主体は良く“自我”に仕える。自然主義的自己は食べ物、水、空気と、自己の関係を上に言ったようによく承知している。滞りない循環が良く機能している状態、これが感謝であり、恵みである。この意志(感情と官能、及び知感覚)をヴィジュアル化すれば、大海に漂う家サイズの大豆にしがみついているあなたがある。

 

序3

 人類の文明の歴史は、自由あるいは民主という色彩、官僚という色彩、独裁という色彩で彩られていても、すべては只一本の資本主義というハケで塗布されたものである。われわれはハケを替える。自然主義というハケで、それはボナールのように不器用に、しかし魔術的な色彩コントロールによって、人工物を自然と見違う程にも仕上げる能力を発揮する。

 

 序4

自然・自分・自由、資本主義ではこれらの言葉は我田引水され、換骨奪胎されて本来の意義はもはや見る影もなくなっている。“自”(自ずから)というのは天然自然そのもののことである。自然の“然”は冴え渡る夜空に月がこうこうと照っている様に、犬が我知らず相呼応して吠えている図である。自然は生物界が関与することでより明瞭になる全体調和、個即全の様子を描いている。“自分”はその調和自然から分かれた存在=“自己”のことである。“自由”はその調和自然に“由”生き様、意志のことである。自然の本質は、われわれ個々の存在を、全体を了解し、全体に寄与する為の一個の機能として生み出した。自然が本質=質量であり、われわれ個々は機能に過ぎない。本能は身体であり、質量であり本質である。自我はこの本能の認識機能を統括する力である。認識力は意志の為の機能となって、意志の目的を達成する為に働く。主体的自己は、本能の先天的な生命機構の枠組の外にあって、後天的に形成された概念上の産物に過ぎない。主体性(自己)と本能(自我)の関係をヴィジュアル化すれば以下のようになる。本能を質量の詰まった赤い円筒とする。透明の材質でつくられた中空の円筒を用意し、赤い円筒を覆うように設置する。カバーのようになった透明の中空円筒が主体的自己である。今、この透明円筒を通して中の赤い円筒が透けて見えている。この状態は、主体的自己の働きが、未だ、概念にまどろんでいる状態を表わす。これは生育史的には乳児段階にある状態である。生長するにつれ、透明円筒は自らの色(例えば黒)を帯びてくる。次第に色素が詰まってくると、透明度はそれにつれて減じ、遂には不透明となる。裡にある赤円筒はこれで外からは見えなくなった。この状態は主体がその本質である無制限の自由を際限なく発動した状態で、存在は全面的に資本主義に染まったのである。われわれは躾という概念を知っている。躾もまた文明が必要として生み出した概念である。乳児が、その生育レベルから休みなく両親から理想的な躾を受けると、主体は自然主義を理解し、彼の意思は生命の本義をまとう。主体的な自由の力は、まず自己の存在の裡に向かい、その存在質量を統制する調和の概念を汲み上げる。その色は赤である。主体の透明円筒は赤い色素で充満する。主体的存在の理想がここに実現したのである。われわれは、乳児のこの連綿と続く躾(教育)を学習するその努力に対して、第一級の報酬を与えねばならない。

 

序5

 “調和”という概念には全体という概念が含まれている。部分の調和というものはない。調和は常に全体に波及されて、調和という。

 

 

   死の問題は存在の要である。人間は自由=無制限を持つので、死という有限性は、文字通り主体性の前に立ちはだかる。死の処理を適切に行なえる能力を各人に与える教育を通低するものでなければならない。

 

 

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